一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

「ポエムに万歳!」(小田嶋隆)

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ポエムに万歳!(新潮文庫)

ポエムに万歳!(新潮文庫)

 

 ワタシは、「酒場のギター弾き」というキャッチフレーズの前は「愛を語る恋愛歌人」(自称)と言っていた。(笑)五行歌という表現方法に出会い、毎日毎日、歌を、コトバを紡いでいた。「歌」「詩」「唄」というコトバは好きだけど「ポエム」というコトバはなんかいやだなー!(@_@)

 

さて、この本。「書き手の「何か」が過剰に溢れた言葉。意図的に「何か」を隠すため、論理を捨てて抒情に流れた文章。そこに「ポエム」は現われる。感情過多で演出過剰な、鳥肌モノの自分語りは、もはや私生活ストリップだ。Jポップの歌詞や広告のコピーならまだ許せる。だが、いまやこの国では、ニュースや政治の言葉までもが「ポエム化」している!名物コラムニストが不透明な時代を考察する」そのエッセンスを紹介しよう。

 

ポエムは、強いて定義するなら「詩になり損ねた何か」あるいは「詩の残骸」と呼んでしかるべきものだ。両者の関係はバターとマーガリンの関係に似たものだ、と言えば良いのかもしれない。どっちにしても、詩とポエムの両方を享受する心の領域は、ほぼ同じだ。
 
学校の詩の時間にほめられる子供は、どちらかといえば勉強のできない組みの生徒だった。優等生にはなかなか書けないというのも詩の時間に求められているのは、前後の辻褄が合っていなかったり、舌足らずでちゃんと説明し切っていなかったりする、通常の散文としては不出来なテキストだからだ。そういう筋の通らない文章は、デキの良い子には書けない。大人でも同じ。優秀な人間ほど言葉に含まれる音や感情を棋士話して、情報と論理以外の意味的な曇りや歪みのようなものを極力排除しようとする。
 
「詩」が既に書店の棚から消えて久しい。文芸としての詩のジャンルは、詩人が食えないという事情もあって、この30年ほど、ほとんど死に絶えている。おそらくJポップの歌詞がもてはやされるようになったのは、文芸としての詩が滅びたことと入れ替わりであったはずだ。
 
相田みつをの「ポエム」をトイレに置いたのは、まことに卓抜な着眼点だったと申し上げねばならない。
 
謡曲の衰退という流れもある。かつて、大衆芸能や詩歌は「誰もが知っているフレーズ」「全国民に共有されている感情」を踏まえた上で、そうした「文化的蓄積」への追加の一行として書き加えられて行ったということだ。国民歌謡という意味での最後の歌は、おそらく石川さゆり津軽海峡・冬景色であるはずだ。この歌が流行った1977年あたりを分水嶺として、それ以降、日本のお茶の間から「団欒」が消えたのだ。
 
・問題なのは、ニュース原稿のポエム化の方だ。平成のテレビ画面の中にこの傾向を定着させた元凶は、誰でもない。古舘伊知郎氏その人だと思っている、彼の芸風は、元来、実況ポエムだった。それもそのはず、彼はプロレス実況アナ出身であり、そのプロレスと言えば、古くからの筋肉ポエムの震源であり、源流を辿れば、興行師の口上から出発した大衆芸能ライクな話芸を伴った見世物だからだ。あらゆる場面が形容過剰になる。アナウンサの言葉が控えめだったら、そもぞも興行が成立しない。
 
「電子メールはノイズの巣」「消えた大衆」は、ナットク!謡曲が消えて、淋しいなあ……みんなで歌える歌って、家族団らんってなくなったもんね…。改めて考えさせられる。オススメです!(・∀・)

 

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ポエムに万歳!(新潮文庫)

ポエムに万歳!(新潮文庫)