まだ新潟にいた幼少の頃、昭和40年前半、テレビで放映されていた「エイトマン」。あの主題歌はいまでも歌えるよ〜!「流し」できるよ〜!♪ (・∀・) 原作者の桑田二郎(次郎)は、ナント!13歳の中学生でプロデビューしたという!ひえ〜!すごーい〜!!!
・わたしのマンガ家としての人生の前半は、中学生の頃から、 すでにプロの道を歩きはじめ、若くして、 トントン拍子にヒット作を生み、 一見はではでしく人生を自由奔放に楽しんでいたかのように見られ ていたかも知れない。しかし実際には、 心の奥に常に大きな苦悩につきまとわれていた。それは、 自分でも原因の良く分からない「自殺願望」という苦悩であった。 わたしは自分のたどってきた人生をふりかえって、 自分の心のゆがみが、どのような運命を形づくってきたかを、 ここに書きしるしてみようと思う。
・マンガの絵を描き始めたのは、ペッタ(メンコ) の絵に興味を持ったところからであった。いろいろな動物を、 楽しいマンガで描いているのもあった。六年生の頃、 わたしはそうした動物のマンガを模写するのが楽しい遊びとなって いた。また、 当時プロ野球の人気が少年達の間でも爆発的に広がっていた。 赤バットの川上選手、青バットの大下選手や青田選手などが、 その人気をもり上げていた時代だ。もし、 マンガの動物たちが集まって野球をやったら、 どういう試合になるだろう、などと空想し、それを物語にして、 紙芝居に描いてみようと思いたった。
・さっそく十枚ほどの紙芝居をクレパスを使って、 まる一日で描き上げた。翌朝それを学校に持って行き、 クラスの連中の前で、紙芝居屋のやるように、 やって見せたところ、それが大受けに受けたのであった。 そしてみんなに続きをやってくれとせがまれた。そうなると、 意欲百倍!それからは毎日、十枚もの紙芝居を描き上げては、 翌朝、 授業の前にクラスのみんなに見せるのが日課のようになった。 しかし、問題は紙芝居を描く紙がないことだった。
・ある日、赤木が一冊のマンガ本を持って来てくれた。 それは手塚治虫の描いた「月世界紳士」 というストーリー漫画であった。それを読んだ時の、 わたしのショックは大きかった。そこには、 今までのマンガとはまったく違った夢と感動があった。わたしも、 こういうマンガを描きたい!という思いが熱くわき上がった。
・問題なのは、本格的なマンガの原稿というのは、 どう描けばいいのか……。手引書などない。 当時のマンガ本は64頁の二色刷りが一般的だった。しかし、 墨汁で描いて、上から赤い絵具で色付けすると、墨汁の線が溶け出して、 赤い色とまざり合ってしまい、絵がめちゃくちゃになってしまう。 いったい、どうすればいいのか!? その頃は耐水性のインクも知らず、 画材の専門店があるという事すら知らなかった。
・それやこれやの苦労の中でついに第一作が完成した。 タイトルを「怪奇星団」と名づけた。一応、 今でいうインベーダーの地球侵略を撃退するという、ちゃちな、 SFの物語だ。中学一年生のわたしには、 それで精いっぱいのものだ。 勇んで出版社へと出発する事になった。
・青雅社の社長は「うん!これならいけるよ」という。 単なるほめ言葉だと思っていたところ、 わたしのマンガを出版してくれるという。まさか! 原稿料だといって、五千円をわたしに手渡してくれながら、「 また、描き上がったら持っておいで」という。 当時の五千円といえば、今の二十万円というところか。社長は「 あまり変な事に使うんじゃないよ」ともいった。しかし、 その変な事とは、いったいどういう事なのか、 さっぱり分からない。まさか自分のマンガが、 いきなり原稿料をもらえるなど思いもしなかかった。
芸能界の子役もそうだけど、若いときに活躍した人ってその後いろいろあるよね〜!ある意味天才だよね〜。マンガ家人生後半の仏教系のマンガもいいよね。オススメです。(・∀・)