「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「手塚治虫と路地裏のマンガたち」(中野晴行)

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手塚治虫と路地裏のマンガたち

手塚治虫と路地裏のマンガたち

 

 子どもの頃の夢はマンガ家、プロ野球選手、歌手になること手塚治虫赤塚不二夫に憧れ、ガンガン、マンガを描いていた。しかしその才能が枯渇したのが小学校6年。(早っ!(笑))

 

手塚治虫トキワ荘の物語が特に大好きで、藤子不二雄まんが道は夢中になって読んでマンガ家に憧れたのだった。(・∀・)

 

さてこの本。手塚治虫がいかに誕生したのか。その背景だった大阪の松屋町を舞台に、手塚以前と手塚以後のマンガ界を描くドキュメント。そのエッセンスを紹介しよう。


これから紹介するのは、戦後の子どもマンガの物語である。舞台の大半は、大阪の松屋町人形やおもちゃ、駄菓子の問屋が軒を連ねる下町である。この下町が舞台になるのはほかでもない。江戸の終わりに日本に上陸したポンチ(マンガ)やスーパーマンバットマンなどのアメリカンコミックとは異質の、新しい日本のマンガ文化が、この大阪らしいごちゃごちゃした一角から誕生したからだ。


・昭和20(1945)年8月15日。兵庫県宝塚市。少年はせっせとマンガを描いていた。昼には重大なラジオ放送があるので家にいて必ず聞くようにと言われていたのだが、朝から描き始めたマンガが良いペースで仕上がっている。少年の名は手塚治。歳は16歳。春に大阪大学医学専門部に入学したばかりの学生だ。医者のタマゴのくせに、彼のマンガへの入れ込みぶりは半端ではない。小学生の頃から描き続けたマンガは数知れず。なんと、動員先の軍需工場でさえ、教官の目を盗んでマンガを描いていたというのだ。


「どうやら、まちがいなく戦争は終わったらしい。これで、思う存分マンガが描けるぞ。マンガが掛けるんだ」少年は、躍り上がって喜んだ。すべては、この時始まった。


新宝島』が書店に並んだ時の反響は凄まじいものだった。文字通り飛ぶように売れた。「こんなマンガ見たことない。2ページ、ただ車が走っているだけ。それなのに何故こんなに興奮させられるんだろう」(藤子不二雄)「その本はハッとするほど新鮮なものでした」(石ノ森章太郎)「この作品を読了したときのぼくは、血沸き肉踊るといった感じで興味津々だった。それまでのマンガが急速に影が薄くなっていくように思われたのであった」(桜井昌一これまでにない全く新しいタイプのマンガの登場に、全国の少年少女が夢中になった。子どもたちの目には、動かないはずの絵が動き、画面の奥からは音さえ聞こえてきたのだ。この本のためにマンガ家になる決意をした子どももたくさんいた


特に「手塚マンガの誕生」「子どもマンガのルーツは岡本一平門下の宮尾しげを「団子串助漫遊記」」「小寺鳩甫(きゅうほ)と弟子の酒井七馬」「赤本マンガ狂想曲」「伝説の天才少年マンガ家・田川紀久雄」「京大生の天才学生マンガ家・モリ・ミノル」「貸本漫画パラダイス」など。

 

クールジャパンの根幹である日本のアニメの原点はココだ!マンガファン、アニメファン必読!オススメです!(・∀・)♪

 

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手塚治虫と路地裏のマンガたち

手塚治虫と路地裏のマンガたち