ワタシはピアノは弾けないけど、バイエルという名前は知っている。ところがバイエルは日本でしか有名ではないという。えっ!Σ(・∀・;) 近年は、バイエルの評価が下がり、実在すらしなったのでは!?という説まであるのだという。
「ミドミドミソミド……。誰もが知る初級ピアノ教則本として、明治以来100年以上、日本人の音楽教育の基礎を担った「バイエル」。でも、その作者の経歴はなぜか誰も知らない。疑問に感じた著者はチェルニー偽名説、ペンネーム説など通説を再検討する一方、各国のオリジナル初版を手がかりに、そのルーツを探す旅に出たが。そして出会った驚きの新事実とは?魅惑の音楽紀行が始まる!」そのエッセンスを紹介しよう。
・バイエルという言葉は、すでにピアノや音楽を超えて、教則本、入門、初歩、基礎、用事、初学者、楽しく学べる、効果がある、自習できる、という意味を持った言葉として成立している のだ。ところがである。バイエル・ピアノ教則本を書いたフェルディナンド・バイエル 本人について書かれた本は一冊もない。世界中どこを探しても一冊もない。バイエルほど有名でかつ無名である人物もめずらしい。
・バイエル・ピアノ教則本は世界中で愛用されてきたのに、バイエルと彼の教則本について確実なことが何もない。肝心なことは何もわかっていない。信頼できる情報が何もない。なぜ日本人はこんなにも長くバイエル・ピアノ教則本を弾いて来たのだろうか。 誰も答えることができない。私が知りたいのはその答えである。日本の大切な文化の一つについて知りたいと思っている。
・MGGと略記されるドイツの音楽辞典『音楽の歴史と現在』全29巻全2万5千ページには、バイエルの記述は一行たりともない。 友人のドイツ人は「ドイツであれくらいの作曲者まで書いていたらページがいくらあっても足りません」 と自慢とも慰めともつかない返事が返ってくるだけだった。
・日本にバイエルがもたらされたのは明治13(1880)年。お雇い外国人のルーサー・ホワイティング・メーソン なる人物が音楽取調掛で使うピアノ教科書として持ち込んだ。これは間違いない。アメリカからもたらされた。これも事実である。問題はいつ、どこからではなく、誰が、なぜ、持ち込んだか 、である。特になぜは重要である。日本人がこんなにも長くバイエルだけを使い続けてきたのはなぜか。その答えに「なぜ」が関係するからである。メーソンの専門は唱歌教育でピアノ教育ではなかった。ピアノ教育についてはまったく素人であった。
・バイエルの評価。「独創性も価値もないピアノ音楽」「商業主義のために工場機械のごとく芸術作品から大量の素人好み作品を生み出す作曲家」「工業的音楽製作に身を投じ、数え切れないファンタジー、メドレー、気晴らし曲最も浅薄な素人の腐った趣味に貢献したことで評判を落とした」「飽くなき商業的欲求に従った音楽商品作り」「二流の、いや三流の作曲家」「どれもこれも、芸術的にどうしようもないほどつまらなく、たいくつな曲ばかり」
・バイエルは、1806年8月25日午後21時30分にこの世に生を受けた。世界中で私だけがバイエルの正しい誕生年月日を知っている。父は下手職人の親方で、母の父がオルガニストで教会付属学校の教師だったということは、バイエルの才能は母方から受け継がれたもので、それが彼の職業を決定したのだろう。16歳で父を亡くしたバイエルは、もしかしたら母親のもとで教育を受けたのかもしれない。想像に過ぎないが。
・祖父から父へ、そして自分へ受け継がれた音楽の教養を我が子に仕込んだのであろう。何か我が子にかける母親の強い愛情を感じられる。 バイエルの序文には、専門の教師につける前に、両親が我が子を自ら手ほどきするための教則本であるという内容が書かれているがそれはこういう意味だったのか。と今は了解できる。バイエルは母との幼い日々の思い出をバイエル第一部に再現したのだと思えてしかたない。バイエルの第一グレード(前半、64番まで)にバイエルは、きっと幼い日々の母との楽しかった、ときには少しは苦しいこともあったお稽古の思い出をいっぱい詰め込んだ のだ。バイエルの単純で透明な一つ一つの音に込められているのは、子どもを思う母親の愛情である。母を慕う子どもの気持ちである。バイエルがタイトルに「母たちに捧げる」と記したとき、彼の脳裏にあったのは、改革派教会のカントルとオルガニストの血を引く母のことだったに違いない。
その他、「バイエル初版と初版復元」「最古のバイエル」「静かにした手」「天才ピアノ教育化園田清秀の音感教育」「改築申請書」「最後の秘密」など。
いや〜後半からラストは感動するねえ……推理小説のような謎解きが楽しめるね。ピアノ弾くヒト、必読っ!超オススメです。(・∀・)