一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

「納棺夫日記 増補改訂版」(青木新門)

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納棺夫日記 増補改訂版 (文春文庫)

納棺夫日記 増補改訂版 (文春文庫)

  • 作者:青木 新門
  • 発売日: 1996/07/10
  • メディア: 文庫
 

映画やドラマをほとんど観ないワタシが同じ映画を2回以上観るということは数えるほどしかない。その中でもアカデミー賞を受賞したおくりびとはその中の貴重な一本だ。その原作ともいうべき本がコレ。いや〜!これは深いっ!映画の100倍深いなあ…。映画の内容は前半で、本当に著者が言いたかったことが後半だったんだな…。

 

"死"と向い合うことは、"生"を考えること。長年、納棺の仕事に取り組んだ筆者が育んできた詩心と哲学を澄明な文で綴る"生命の本"」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・叔父は、いい仕事があるがと切り出し、話の中で、何代も続いた家柄の本家の長男が納棺夫になりさがったことをなじったり、わた一族には教育者や警察など国家公務員も多く、社会的に地位のある人も多い、と言ったり、その一族の恥だと言ったりした。そして最後に、今の仕事を辞めないのなら絶交すると言った。葬儀屋の社会的地位は最低であるし、納棺夫や火葬夫となると、死や死体が忌み嫌われるように嫌われているのが現状である、どうも、タブーの世界へ足を踏み入れたようだ。そう気付くと不安になる。
 
トンボたちが壮大な夕焼けの空を飛んでいる。考えてみればトンボたちは、人類が出現する前の気の遠くなるような昔から、夕焼けの空を飛んできたのだ。この秋の夕暮れの一瞬に、生の存続を賭け、数億年も飛んでいるのだ夕焼けがトンボを赤く染めあげたのだ。
 
・久しぶりに、湯灌・納棺の仕事が入った。東京から富山へ戻り最初につき合っていた恋人の家であった十年経っていた。瞳の澄んだ娘だった。コンサートや美術展など一緒によく行った。午後十時の別れ際に車の中でキスしようとすると、父に会ってくれたら、と言って拒絶した。それからも父に会ってくれと何回か誘われたが、結局会うことなく終わってしまった。しかし、醜い別れ方ではなかった。横浜へ嫁いだと風の便りに聞いていた。本人は見当たらなかった。ほっとして、湯灌を始めた。
 
額の汗が落ちそうになったので、白衣の袖で拭こうとした時、つの間にか座っていたのか、額を拭いてくれる女がいた。澄んだ大きな眼一杯に涙を溜めた彼女であった過作業が終わるまで横に座って、私の額の汗を拭いていた。退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。その後ろに立ったままの彼女の目が、何かいっぱい語りかけているように思えてならなかった。車に乗ってからも、涙を溜めた驚きの目が脳裏から離れられなかった。私の横に寄り添うように座って汗を拭き続けた行為も、普通の次元の行為ではない彼女の夫も親族も見ている中での行為である。軽蔑や哀れみや同情など微塵もない、男と女の関係をも超えた、何かを感じた。私の全存在がありのまま認められたように思えたそう思うとうれしくなった。この仕事をこのまま続けていけそうな気がした。
 
職業に貴賤はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は、無残である。昔、河原乞食と蔑まれていた芸能の世界が、今日では花形になっている。士農工商と言われていた時代の商が、政治をも操る経済界となっている。自分の父や母が、日ごろ白い眼で見られている者の世話になって人生の最後を締めくくるのも、おかしな話である。
 
・仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、彼らに致命的な問題があることに気づいた。死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである。自分の職業を卑下し、携わっているそのことに劣等感を抱きながら、金だけにこだわる姿勢からは職業の社会的地位など望むべきもない。嫌な仕事だが金になるから、という発想が原点である限り、そのような仕事であれ世間から軽蔑されるであろう。
 
・お棺を置き、布団をはぐった瞬間、一瞬ぞっとした。無数の蛆(ウジ)が肋骨の中で波打つように蠢いていたのである。何も蛆の掃除までしなくてよいのだが、ここで葬式を出すことになるかもしれないと、蛆を掃き集めていた。蛆を掃き集めているうちに、一匹一匹の蛆が鮮明に見えてきた。そして、蛆たちが捕まるまいと必死に逃げているのに気づいた。柱をよじ登って逃げようとしているのまでいる。蛆も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた。
 
・死者の顔を気にしながら、死者と毎日接しているうちに、死者の顔のほとんどがやすらかな顔をしているのに気づいた。この地方の葬儀は、80%以上が浄土真宗で執り行われるが、ほとおどが門徒でることさえ自覚したことがない。にもかかわらず、死者の顔はみんな同じように安らかな相をしている。死んだままの状態の時などは、ほとんど眼は半眼の状態で、よくできた仏像とそっくりである
 
死に近づいて、死を真正面から見つめていると、あらゆるものが光って見えてくるようになるのだろうかそれはどんな光だと言われても、説明のしようがないもののように思えた。私の手を握って「ありがとう」と言った叔父の顔にも、多くの死者たちの顔にも、あの光の残映のような微光が漂っていた。詩と対峙し、死と徹底的に戦い、最後に生と死とは和解するその瞬間に、あの不思議な光景に出会うのだろうか。人が死を受け入れようとした瞬間に、何か不思議な変化が生じるのかもしれない
 
・最近になって、この世に詩人というものが生まれるのは、人生の初期段階で、あの不思議な光が関わっているのではないだろうか、と思うようになった。詩人たちの生き様には一つの共通のパターンが見られるのである。まず詩人たちは一様に、ものへの執着がなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しいものに憧れながら、愛欲や酒に醜く溺れ、死を見つめいているわりに、以上に生に執着したりしている。そして、言葉で言っていることにわりに、やっていることはお粗末で、世に疎まれながら生きているといったパターンが多い。どうしたこのような悲しい生の軌跡をたどるのか、不思議に思っているうちに、あの不思議な光のせいではないだろうか、と思うようになった。あの「光」に出会うと、生への執着が希薄になり、同時に死への恐怖も薄らぎ、安らかな気持ちとなり、すべてを許す気持ちとなり、思いやりの気持ちがいっぱいとなって、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれでる状態となるこうした状態になった人のことを、仏教では菩という。
 
・特に幼年時代に生の根源に関わる事件が、光現象に類似の現象を生むようである。その最大の事件は、親との別離である。動物の世界では母親との別離は死を意味する。源信法然明恵道元、一遍、親鸞蓮如これら高僧たちはおしなべて、十歳未満で父母との別離に出会っているこうした幼い日の悲しみの光は、いつまでも残り、その人生に大きな影響を与えていく。
 
本来、原生生物には死がないといわれている。単純な分裂によって増殖し、その過程で一切の死骸に相当するものを残さないそうである。この方が自然の摂理に叶っているのであって、高等生物の自然死は、有機体が複雑に進化し、不完全な統合しかできなくなって引き起こされる付帯現象であるという。要するに、死ぬということは有機体が複雑になったがゆえに生じた不完全さの結果であるといいうわけである。生物の中で最高の複雑さを身に付け、最も自然の摂理とかけ離れてしまった人間は、生死を超える完全な統合を、如来の力に頼るしかないのかもしれない。
 
(高史明)・人間にとっての幸福とは何か。とりわけ現代の私たちが、幸福という言葉を通して、その脳裏に思い描くのは何であろう。白いご飯がそれだけで幸福という言葉と、まっすぐに結びついていた時代があった。戦後すぐの頃には、一日に何人もの餓死者がでていたのである。世の中が少し落ち着いてきてからは、電気冷蔵庫などの電化製品が、幸福という名とともに考えられた。今日の人びとは、焼け跡から始まった50年前の夢を、ほぼすべて実現させているのである。だが、人びとはいま、その心底に広がる深い不安と虚しさを、深く意識しているのではなかろうか。

 

今年読んだ本の中のベスト10入り、間違いなし!です。超オススメです!(・∀・)♪

 

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納棺夫日記 増補改訂版 (文春文庫)

納棺夫日記 増補改訂版 (文春文庫)

  • 作者:青木 新門
  • 発売日: 1996/07/10
  • メディア: 文庫