「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「日本辺境論」(内田樹)

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日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2009/11/16
  • メディア: 新書
 

2020年もあとわずかだね。だんだん街や精神状態が静かに澄んできて、自分自身のことを考えたりする。そしてこの時期には決まって、日本や日本人であることを考えたりもするのはワタシだけではないだろう。(・∀・)

 

さてこの本。またまた良い本に出会いましたよー!♪

日本人とは辺境人である―「日本人とは何ものか」という大きな問いに、著者は正面から答える。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人なのだ、と。日露戦争から太平洋戦争までは、辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。丸山眞男、澤庵、武士道から水戸黄門養老孟司、マンガまで、多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。読み出したら止らない、日本論の金字塔、ここに誕生」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・本書における私の主張の要約。「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面。ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している。一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくという意識である。おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうかと思う」(梅棹忠夫『文明の生態史観』)
 
・私たちは国家的危機に際会したときに「私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか」とう問いに立ち返りません。私たちの国は理念に基づいて作られたものではないからです。私たちには立ち帰るべき初期設定がないのです。
 
他国との比較を通じてしか自国のめざす国家像を描けない。国家戦略を語れない。そのような酒類の主題について考えようとすると自動的に思考停止に陥ってしまう。これが日本人のきわだった国民性格です。
 
日本を代表する国民作家である司馬遼太郎の作品の中で現在外国語で読めるものは三点しかありません。(『最後の将軍』『韃靼疾風録』『空海の風景』)『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も『燃えよ剣』も外国語では読めないのです。驚くべきことに、この国民文学を訳そうと思う外国の文学者がいないのです。いるのかも知れませんが、それを引き受ける出版社がない。市場の要請がない。思想家においては事態はさらに深刻です。日本の戦後思想はほとんどまったく海外では知られていません。吉本隆明江藤淳埴谷雄高谷川雁村上一郎平岡正明も、外国語訳はありません。おそらくこれらの思想家たちの論理や叙情があまりに日本人の琴線に触れるせいで、あまりに特殊な語法で語られているせいで、それを明晰判明な外国語に移すことが困難なのでしょう。
 
「日本」というのは「中国から見て東にある国」ということです。もしアメリカ合衆国「メキシコ北」とか「カナダ南」という国名を称したら私たちは「なんと主体性のない国名だ」と嘲笑するでしょう。けれども「日本」という国名は文法構造上そういうものです。
 
日本の辺境性をかたちづくっているのは日本語という言語そのものです。私は今、この本を日本語で書いています。それは、さしあたり私の述べていることは日本語話者にしか通じないということです。例えば、どうして私がこの本で「です・ます」という文体を採用しているのか。どうして私が「ぼく」ではなく「私」という一人称を採用しているのか。その消息は、たぶん日本語話者にしかわからない。
 
・英語の人称代名詞は単数・男女の区別しかありませんが、日本語は性数のみらず、その言明がそのような「自他の関係」を構築しようとしているかによってほとんど無数の人称代名詞が可能だからです。(儂(わし)「手前」「小職」「老生」とか)ですから、本を書くときに、書き手が「私」を選択するか、「ぼく」を選択するかで、書き手の読者に対する関係は違うものになります。言い換えると、日本語ではメタ・メッセージの支配力が非常に強いということです。日本人はコミュニケーションにおいて、メッセージの真偽や当否よりも、相手がそれを信じるかどうか、相手がそれを「丸呑み」するかどうかを優先的に配慮する。コミュニケーションの最初から最後までそのことばかりを考えているという国語は稀有でしょう。
 
日本語はどこが特殊か。それは表意文字とと表音文字を併用する言語だということです。かつて中華の辺境はどこもそのようなハイブリッド言語を用いていました。朝鮮半島ではハングルと漢字が併用され、インドシナ半島では字喃(チュノム)」と漢字が併用されていました。韓国は1968年には漢字教育が廃止され、1970年には教科書から漢字が消えました。ベトナムもそうです。ですから、現在の韓国人やベトナム人は、二世代前の人たちが書いた文章がもう読めません。祖父母の書いた文章が読めない。文学作品も、歴史資料も、哲学書も、読めない。それは民族的な文化の継承という点ではほとんど致命的なハンディではないか。
 
・なぜ、日本人の書くマンガだけが例外的な質的高さを達成しうるのか。これは言語構造の特殊性によるのである。
 
「日本人は辺境人である」「オバマ演説を日本人ができない理由」「「ぼく」がなぜこの本を書けなかったのか」「日本語がマンガ脳を育んだ」など。

 

マンガと日本語については、なーるほど!と腑に落ちたー!日本人ってスゴい、日本人で良かったー!超オススメです。(・∀・)

 

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日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2009/11/16
  • メディア: 新書