ワタシが過去見た中でスゴい投手は、何人もいるけど、そのうちの一人が伊藤智仁だ!!!あの鮮烈のデビューは、今でも覚えている!
93年、あの松井秀喜を抑えて新人王に輝いた元ヤクルトスワローズ伝説の投手・伊藤智仁。名捕手・古田敦也に「直角に曲がる」と言わしめ、名将・野村克也でさえも「私が見た中でナンバーワン」と感嘆した“高速スライダー”を武器に、プロ野球界を席巻した。そんな鮮烈デビューを果たした伊藤だが、その後はたび重なる故障に見舞われ、長期離脱を余儀なくされる世間からは「悲運のエース」と呼ばれた。しかし、伊藤智仁は「悲運」ではなかった―」そのエッセンスをしよう。
・1993(平成5)年2月、アメリカアリゾナ州・ユマー。 野村克也は、 内面から湧き出る喜びと興奮を隠すことができなかった。 ヤクルトスワローズの監督に就任して4年目。 これまでこんな新人投手を見たことがなかった。いや、 長いプロ野球人生においても、 ここまで完成された投手に出会ったことがなかった。 キャンプが始まってわずか数日ではあったが、 稀代の名将はこの時点ですでに「屈指の名投手が入団した」 と確信していた。
・「アイツのカーブは「目をつぶってもストライクは取れます」、 そんなボールこんなのは江川(卓)しか見たことがない。まさに「 江川二世」だよ。そしてフォーク。これもパーフェクト。石井( 丈裕)より上だね」
「普通はストレートに惚れるものなんです。 でも伊藤の場合は違った。「スライダーの魅力なの」 初めて見てすぐに「すごいスライダーを投げるな。 このスライダーならすぐにプロで通用する」とも思った。 それが彼に対する最初の印象。真っ先に思ったのは「まるで、 稲尾和久のようだ」ということだったな。稲尾のスライダーは、 キレ、鋭さ、コントロール、すべてにおいてすばらしかった。 その稲尾の姿と伊藤の姿がピッタリと重なった」
・笘篠賢治は「あのスライダーは真横にスライドする。 ストレートも詰まらされた」と驚嘆した。後に、古田をして「 直角に曲がる」と称されるスライダーは、 五分の力で投じていたキャンプ時点ですでに「 真横にスライドする」と言わしめるほどだったのだ。
・「おそらくね、デビューが鮮烈だったから、世間の人たちは「 ケガさえなければもっとできたはず。本当に惜しかった」 と思っているんだと思います。 でも僕はまったく正反対の考えなんですけれどね……。僕は、 毎試合「いつ壊れてもいい」と思って投げ続けていました。 本当は壊れちゃダメなんです。でも、当時の僕は「壊れてもいい」 と思っていたし、壊れることを恐れていなかった。 そしてその結果、壊れた。それはしょうがないことだし、 自分でもあきらめのついている部分なんです。 もしも僕が腕を振ることを怖がっていたらプロに入ることもできず 、新人王を獲ることもできなかったはずですから」
・「ありがたい。ラッキーだと思います。ただ、それだけです」 故障に苦しみ、リハビリの過程を聞いている間も、 伊藤の言葉に悲壮感はほとんど感じられなかった。そして、 どんなに困難な状況を語っているときでも、彼はしばしば「 ラッキー」と口にした。人とは違う緩い肩関節を持っていたこと。 強豪校ではなかったので、高校時代に肩を消耗しなかったこと、 永田晋一が快くスライダーを伝授してくれたこと。 山中正竹というよき理解者に出会えたこと。 バルセロナ五輪で野球競技が制式採用されていたこと…。 あるいは、ヤクルトという球団に入ったこと、 野村克也の下で野球を学んだこと。 古田敦也という稀代の名捕手とバッテリーを組めたこと。「酷使」 としか表現できないほどの登板機会を与えられたこと。 アメリカに渡って、日本とは違うリハビリを体験し、学べたこと。 いい仲間に恵まれたこと。たび重なる故障の結果、 身体に対する意識が高まったこと。世間が勝手に「悲運のエース」 というイメージを持っていること……。さらに引退後もなお、 ユニフォームを着続けたいたこと。仲のいい両輪の下、 のびのびと育てられたこと。いい妻と子どもたちに恵まれて、 幸せに暮らしていること…… これまでの人生のありとあらゆることが「ラッキーだった」 と彼は考えている。
・伊藤智仁は、決して「悲運のエース」ではない。むしろ「 幸運の男」なのだ。それが、 三十数時間に及ぶロングインタビューの末にたどりついた実感だ。 伊藤は「いいんじゃないですか。確かに「幸運な男」 だと思うから(笑)」
スゴかったね〜〜!!!落ち込んじゃいられないよね〜!災い転じて福となす
。「不運」を「幸運」に替えよう。 オススメです!(・∀・)