学生の頃、もうマンガを読まなくなったころ、唯一読んでいたのがヤングジャンプの石坂啓の「安穏族」。さすが手塚治虫センセイのアシスタント経験者。実に考えさせられる作品だった。実家にまだ単行本あるはずだなー!再読したいなあー!
「父親の事業の倒産がビンボーのはじまりだった。苦労知らずのお嬢様のキャンパス・ライフは、アルバイト暮らしの日々へ急転回。ウェイトレスに訪問販売、塾の講師…艱難辛苦を乗り越えて、手塚治虫のアシスタントとなり、きびしい修行と遊びの毎日から憧れのプロのマンガ家デビューを果たすまでの面白おかしくケッタイな日々を描く、熱血青春奮闘記。まさに、赤貧笑うがごとし」そのエッセンスを紹介しよう。
・私はかなり早い時期からマンガ家になりたかった。 高校を出たらすぐ上京して手塚治虫先生のアシスタントをしたい、 それからマンガ家になりたい、いやなるんだ、なれるんだと12、3歳の頃からずーっと思っていた。70年代は「 芸術家イコール貧乏」みたいな図式がまだ生きていた。 お金をケチるのはたいてい食費からだ。 外食なんて発想は頭からなく、 私はいつも豆腐か卵かモヤシを順番に炒めて食べていた。 スーパーで3個100円のインスタントラーメンをまとめ買いし、 朝はラーメンの麺だけたべ、 夜はその汁でパンかごはんを煮こむなんてこともした。
・学食で60円のごはんだけ注文して塩をかけてたべていたら、 食堂のおばさんが見かねて椀に入った汁をくれた。 駐車場に芹がはえているのをみつけては大喜びでひっこ抜き、 畑に間引きして捨ててあるネギをホクホクもらっては帰り、 プランターになったパセリや二十日大根をやたらと食った。 ヘルシーな食生活。肉はほとんど食べなかった。 買おうとも思わなかった。
・ 78年のころ手塚治虫年生は雑誌連載をいくつも抱えておりアシス タント希望者も多かった。 採用試験は5人採るところに300通ほど応募があった。 よく入れたナーと思うのだが「入りたい!」 の一年だけで合格できたようだ。給料は8万5千円、 手取り7万8千円。そこそこ悪くない待遇だった。「 先生のお仕事を手伝えるだけで光栄なのにお金までいただけるなん て……」といった気持ちでいたから、まったく大喜びだった。
・FAXがなかった時代。 仕事場から写植屋さんに電話でネームを読み上げることもよくあっ た。『ブラック・ジャック』 のピノコちゃんの独特のピノコ語を担当者が電話で送るのをきいて いると、もう抱腹絶倒におかしいのだ。 何日も泊まり込んでいるいかつい風貌のAさんが、 疲れて殺気立った(・∀・)で受話器を取り、 ピノコのセリフを読み上げる。「もちもち、110番?」「 先生をさがちてゆの。ろうちても連絡といたいのよさ……」「 今シキューガイニンチンってシウツしてんの。わかゆ? ニンチンーッ」 険しい空気の中でアシスタントたちはみんな下を向いて笑いをこら えてペンを持つ手がフルフルと震えていた。
特に、「百円に泣く」は、あるあるネタ。私も学生時代、やったなー!(笑)自分の赤貧時代のことを思い出す。オススメです。(・∀・)