小学生の頃、漫画家になりたかった。目指したのは赤塚賞と手塚賞。特に低学年の時は、休み時間に漫画を描いて友達に読ませてたなあ……。マンガの神様、手塚治虫。「火の鳥」「ブッダ」「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」「奇子」……数々の名作があるがやっぱり「ブラック・ジャック」だよねー!(・∀・)!
・先生の描いてる様子?ベレー帽なんてかぶりませんよ。 取材の時だけです。細かい絵を書く時は メガネをはずして。当時、 入居していたビルは全館冷房で深夜12時になるとストップするん です。手塚先生は汗だくで鉢巻きをしめ 貧乏ゆすりをしながら まるで肉体労働者のように 眼で原稿を喰らうように 描いていました。(福元一義 元・チーフアシスタント)
・子供のまんまの 無垢な好奇心の塊 それが 手塚治虫なんです!!
・ええ!!徹夜もよくやりましたよ。眠くてね 富士見台の頃は 先生も同じ部屋で描いてましたから 眠くてね……何度も何度も 意識がなくなりそうになる日があってね…………えっ?つらかったって?とんでもない むしろ うれしかったですよ だって 振り返ると そこに 手塚治虫がいるんですよ!! それだけで 無性に……。
・最初からどだい無理なスケジュールなのに アニメの仕事を引き受け スタッフに逃げられても あきらめず 独りで全部やろうとさらに状況を悪くし 決して妥協することなく リテイクを連発して……ついにはヘトヘトになって コピー機と机のすき間に ダンボールを敷いて寝ている……これが日本一の 世界一の漫画家 神様と呼ばれる男 手塚治虫なんだ…!!!
・当時はアシスタントも少なく、 チーフの福元さんの下に4人しかも連日朝8時から翌朝5時までの 21時間勤務!!まあ私は19歳の若さでしたから 徹夜続きでも体はもちましたけど 40半ばの手塚先生も若い私たちと同じかそれ以上に 埃まみれになって描かれてしました 昭和47年頃 虫プロなどの経営悪化で 何度か悩んでいるお姿を目にしました しかも当時は劇画全盛期で 手塚漫画の人気は落ち込み 手塚先生は 公私ともに大変な時期だったと思います そして一年後 お別れは突然きました 郷里の寺が 全焼したのです 「三船氏、この名刺を持って 空港に行きなさい」
手塚先生の名刺の威力は絶大でした。 私はその名刺1枚で飛行機に乗って秋田に帰ったのです!!「 ブラック・ジャック」の成功は 決して偶然では なかったと思います 神様は どんな時でも 挑戦者として 挑み続け その執念が どん底から 「ブラック・ジャック」を生んだのです!!
(地蔵院住職 三船毅志 元・手塚プロダクションアシスタント)
「第232話 虚像」は、あらすじだけで感動してしまった!壮絶な手塚治虫に感動した!!!こんな仕事をする人はもう出てこないだろうねえ……。マンガファン必読っ!
超オススメですっ!(・∀・)♪