「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「誰も書けなかった「笑芸論」森繁久彌からビートたけしまで」(高田文夫)

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 昔から「お笑い」が大好きである。笑点からはじまりドリフの「全員集合」がはじまる前のマチャアキこと堺正章。そしてコント55号三波伸介林家三平、やすし・きよし、そしてあの「MANZAIブーム」!懐かしい!

 

さてこの本。「森繁久彌の隣家で育ち、寄席で見た林家三平。小学校の卒業文集に青島幸男になりたい」と書き、森田芳光と飲み歩いた大学時代。毎週続くドリフ地獄の会議浅草のすげぇ奴“ビートたけし”との出会いから伝説のオールナイトニッポン誕生。“笑い”を生きた男がすべてを書いた、自伝的「笑芸論」の決定版。」そのエッセンスを紹介しよう。

 

 
クレイジーキャッツはアッという間に人気者になり、皆な口々に「オレはやっぱり植木等だな」「谷啓の方が渋くって面白いって」「犬塚弘もすてがない」などと言っていたが、私は心の中で「しょせん、皆素人だな。あの中で一番面白いのは台本書いている青島幸男なんだよ」とほくそえんでいた。小学校の卒業文集で大きくなったら青島幸男になりたい」と本気で書いた書いて良くって、演じて良くて、まさに笑いのシンガーソングライターである。二足のワラジを履く」というのがあまりいい意味を持たなかった時代、週刊誌でこう言い放った。「才能ある奴ァ何やったっていいんだ。昔かたぎにこの道ひと筋なんて野郎は駄目。履けるワラジは10足でも100足でも履いた方がいい!」クゥ〜ッカッコいい。「努力・勤勉・勉強なんてのは何の役にも立たないのが、この世界。ズバリ、必要なのは才能だけ。才能ない奴ァ、田舎帰ってクソして寝ちまえ」
 
永六輔
 
本名は孝雄。高校生の時、映画青い山脈がヒットし、その主役・池部良の役名が「六助」だった。「ロクスケ」という名は南無阿弥陀仏の六文字を表すから、よく体の弱い子供に死んだものとして諦めてつけたり、ヤクザが人を殺す時に「六の字にしてやる」と言ったりするという歌舞伎うんちくなどを父が教えてくれた。字面でいえば、「六輔」の方が……と言われ、のちのこれがペンネームとなった。その後、ラジオ番組への投稿などは有名な噺。早稲田大学へ通う頃には、すでに作家の大エース野坂昭如をマネージャーに従え、20歳の頃には社長。テレビの試験放送から引っ張りだこ。坂本九やら渥美清やらを従えコントまでやっている。上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「帰ろかな」「遠くへ行きたい」などの作詞なんたって第一回日本レコード大賞「黒い花びら」(水原弘の作詞というがスゴい。ことごとく第一号なのである。歩く初代である。
 
 
ポール牧青空球児から「浅草に凄ぇのがいるよ。高田ちゃんと一緒くらいの年かっこう」と聞いて浅草へ向かった。そこで見たのがツービートだった。物凄い早口で、田舎者を馬鹿にし、婆ァ死ねと毒づく小さい方、こりゃたまげた。テレビに出る出ない以前に危険な存在だ。この男と会って話がしてみたい、NHKの番組取材にかこつけて呼び出した。なにしろたけしは暇だったから呼んだらすぐに来た。
 
この頃にはツービートは東京のマニアの間では超々有名で「ブス」をバカにしたり「バカ」をからかったり「田舎者」と差別した「年寄り」に死ねと言ったり、今の時代からとうてい放送できるものではなかった。コンプライアンスも差別も放送禁止も、クソくらえであった10年以上の屈折を経て、ドッカーンと火を吹いた毒舌漫才は、アッという間に全国に飛び火した。売れなくて明治大学も中退で、足立区で、相方が山形で、という三重苦、四重苦のたけしが、時分より弱い者を目クソ鼻クソで笑い飛ばすから毒の中に愛嬌があった。「人のこと言えるのか」ってやつであるその首のカクッカクッはなんだとつっこまれる前であった。たけしは真顔で私に聞いた。「売れたら、海外とか遊びに行けるのかなぁ」まだそんな時代だった。
 
たけしがこの世に登場する昭和55年のMANZIブームの時、山藤章二宗匠は、ズバリみごとにこう言い当て、喝破した。漫才がフィクションからノンフィクションに変わった」このひと言で、あの時代の「笑い」は分析できる。(そう、この頃は、「笑い」と言っていた。いつから「お笑い」になったんだ?つっぱりリーゼントで体が弱い紳助・竜介足立区なのに田舎者をバカにし、ババア死ねと言うツービート広島と岡山のセコいお国自慢をしあうB&Bの例を見るまでもなく、すべてノンフィクション
 
たけしはいつも私に言っていた。「相棒がさ、「悪性の貧乏」こじらせちゃって、今日休みなんだよ」こういう言い回しが抜群に面白くうまかった。
 
その頃、出始めたばかりの、まだ珍しかったコーヒーゼリーというものを頼んでみた。コーヒーゼリーがふたつ届いたところへ、山形の絵に描いたような田舎者が10分遅れでやってきた。いやぁ〜うまそうな物食べてるねぇ。お兄さん(とボーイを呼んで)俺もおんなじ煮こごり」我々は椅子から転げ落ちた。
 
「たけし・タモリ・さんま」の、世に言う笑いのビッグ3が登場する直前のおよそ10年間を一体、日本人は誰で笑っていたのか。超マニアックに専門的な知識からそっとお教えよう。アイドルたちの絡んで小さな笑いをリトル3は!?せんだみつお」「あのねのね」「ずうとるび」この三組なのだテレビ史の中で誰も証言しなかったが、この三組が1980年以降テレビに起きる「笑いの時代」の礎・人柱となった人々なのである。
 
「たけしのオールナイトニッポンというラジオ番組がどれだけ日本の世界の「文化」「笑い」に影響を与えたことか。「この番組はナウなヤングの君達の番組ではなく、完全に私の番組です」。これ以降の北野武の芸能・芸術活動の方向性は一発で決まったと自負している。
 
・当時、村田英雄は三波春夫と並ぶ歌謡界のドン。触れることすらタブーだったその時代、深夜にたけしがゲラゲラ笑っているのだから、実は冷や冷やものだった。初めて村田センセーが外国へ行った時、パスポートに「SEX」という欄があり、性別を書けばいいのに「大好き」と書いたとか、あわてた職員が「好き嫌いではなくて……SEXです」と言うと、すかさず村田センセー、「週二回」と書いたとか、こんなネタばかりなのだ。「いいか!漫才師、歌手、作家。お互い仕事のジャングルが違うんだ。勝手に他人のジャングルに入ってくるな!」と怒鳴られた。村田だ、オレのボルトを出してくれ」
 
笑いを見るものにとって大切なのは「いつ、どこで、誰を」見たかである。どれだけ早く小さい内から接し、やっていたかである。笑いの感性・センスはそれで決まる三つ子の魂なんとやらである。一番感性がとぎ澄まされる20歳までの20年間で文化や本物にふれることだ。
 
他に、森繁久彌」「三木のり平」「渥美清」「林家三平」「古今亭志ん朝」「森田芳光」「立川談志」「三波伸介」「景山民夫」「大瀧詠一」「坂本九」「脱線トリオ」「ハナ肇とクレージーキャッツ」「コント55号」「ザ・ドリフターズ」「たけし作詞の「浅草ロック」など。

 

わー!オモシロイわー!確かに誰も書かなかったし、書けなかったよねー。お笑いファン、必読。超オススメです!(・∀・)

 

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