「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた。」(松倉久幸)


歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた。―浅草で、渥美清、由利徹、三波伸介、伊東四朗、東八郎、萩本欽一、ビートたけし…が


昭和8年生まれの亡父が若かりし頃、浅草の洋服屋で働いていた。まだ1万円札がなかった時代に一日で100万円売った、あの頃の浅草の賑わいはスゴかったというハナシは、生前によく聞いたものだ。(╹◡╹)


さて、この本。小学生の卒業文集で「尊敬する人=萩本欽一そして明治大学生田校舎の大先輩のビートたけしが修行した浅草フランス座が舞台。


渥美清三波伸介のライバル意識、伊東四朗のデビュー秘話、東八郎萩本欽一に教えた芸人魂、ビートたけしの師匠の死…浅草全盛期、舞台裏から見た浅草芸人の涙と笑いを、浅草演芸ホール(旧・浅草フランス座)オーナーが語る。そしてあれから50年、「灯が消えた」といわれる浅草にふたたび曙光が」そのエッセンスを紹介しよう。


・「(師匠である深見千三郎の)死の知らせを、オレ(ビートたけし)はフジテレビのオレたちひょうきん族の収録中の楽屋で聞かされ、全身を打ちのめされ、膝がワナワナと震えだしたのを覚えている。有名になることだけでは師匠に勝てたものの、しかし最後までオイラは、芸人としての深見千三郎をついに超えられなかったことを、いまははっきりと自覚している」



コント55号のコントは、てんぷくトリオのコントとは、根本的にちがう。てんぷくトリオの場合には、ルールを決めた上での一種のゲームのようなもので、大人が幼児の遊びを真似ているようなバカバカしさが取柄であった。コント55号のコントにあるのは、二人の決定的な対立であり、断絶である。正気の世界にいる坂上二郎のところに、狂気の世界から萩本欽一が現れて、徹底的に小突き回す。それは、とうてい、マスコミが名づけたような「アクション漫才」というようなものではなく、イヨネスコ的世界であり、その狂気は主として萩本の内部から発していた。



北野武は、明治大学工学部を2年で中退、ジャズ喫茶で働いたり、タクシーの運転手もやったり、その彼が突然、芸人を志した。「一生フーテンやっていくのかよ。一生ジャズ喫茶のボーイで終わるつもりなのかよ。ほかになんかやるこたあないのかよ。おまえの夢は何もないのかね。一生をかけてやってみるような、おまえの仕事はないのかね。考えれば考えるほど情けなく、頼りなくて、惨めになるばかりだった。そんな時、『浅草へ行って芸人になろう』なんて、なんでそんなこと思い立ったのだろうか。だけど、思い立ってしまったのだから、こりゃ仕方がない」


・その畳み込んでいくようなスピードとリズム感、センスと時代感覚のよさ。遣い古したような昔風なセリフでも、けっして色あせて見えないオシャレさ。現代的な粋さ。だから、舞台上の師匠は、相手役を演じている若い弟子よりも、何倍もカッコよく見えた。やっぱりあれが深見千三郎だぜ。深見千三郎だよ、あれが。いいんだよ、あの師匠で」(北野武ビートたけしが売れてきた頃、萩本欽一「そっくりだね。深見の師匠に」と感心していたものでした。


「戦後に蘇った大衆芸のメッカ浅草」「芸人・渥美清」「浅草六区のハダカ合戦」「萩本欽一坂上二郎との出会い」など。


青春だなあ…。そしてひとつの時代だったんだねえ。あの頃の芸を見てみたかったなあ。オススメです。(╹◡╹)



歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた。―浅草で、渥美清、由利徹、三波伸介、伊東四朗、東八郎、萩本欽一、ビートたけし…が