「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「天皇は今でも仏教徒である」(島田裕巳)

 


天皇は今でも仏教徒である (サンガ新書)


ワタシが心からお慕い申し上げている天皇皇后両陛下。陛下が跪いて被災地での慰問の様子を見るたびに涙が出る……。まさにそれは日本の象徴であり、平和へおの祈りを捧げる観音様やお地蔵様のようにも見る。(・∀・)


さて、この本。衝撃的なインパクトのあるタイトルだねー!「天皇の信仰を問う。それは、普段我々が考えないことだ。しかし、重要な立場にある人間は、自らの行動の支えを必要とする。天皇はそれを今でも仏教に見出してきたのではないだろうか。多くの国民は天皇の宗教は神道だと思っている。しかしそれは天皇の内面を表してはいない。そして、今上天皇の行ってきた象徴としての行為は、仏教の菩薩行である。本書は古代に歴史をさかのぼり、近代の激動を丹念に追い、天皇と仏教の関係を明らかにする」そのエッセンスを紹介しよう。


天皇の信仰を問う。それがこの本の課題である。一般には、天皇、あるいは天皇家の信仰は神道であると考えられている。だが、そのことを、天皇自身は明言していないし、憲法にも規定されているわけでもない


・現在の天皇が30年ほどにわたる在位期間に考え、実践してきた象徴としての行為が、実は伝統に根ざしたものであり、天皇の信仰と密接な関係を持っているのかもしれない、ということである。だからこそ、今、天皇の信仰を問わなければならないのだ。


天皇の言動をもとに考えるならば、とくに象徴としての行為については、神道の信仰が背景にあるとは思えない。むしろそこには仏教の信仰がかかわっている。仏教には人々を救済するための「菩薩行」という考え方がある。被災地や戦地を、ときに危険な目にあいつつも訪れる行為は、この菩薩行と結びつけて考えたほうが理解しやすいのではないだろうか。


天皇と仏教との関係は深い。明治に入るまで、天皇の信仰の中心にあったのは仏教にほかならない。神道もそこにはかかわっていたが、かかわり方は仏教と神道では相当に違った。


天皇の信仰を問うということは、日本人全体の信仰を問うということにもつながっている。いったい日本人は何を信じてきたのか。天皇の信仰を問うということは、その問題にも通じていくのである。


奈良の大仏の建立には、のべ260万人が駆り出され、総工費は現在の価格に換算すると約4657億円と試算される。(新国立競技場1500億円のおよそ3倍


・念仏を日本にはじめて伝えたのは、最澄の弟子の円仁であった。唐で、密教の修法として金剛界大法や胎蔵界・盧遮那経大法、そして蘇悉地(そしつじ)大法を学んできた。円仁が念仏を日本に伝えのはは、念仏が密教の行のなかに組み込まれていたからである。比叡山では今日でも「不断念仏」という修行の方法が伝えられ実践されている。


念仏信仰というと、民衆の信仰のイメージがあるが、最初それを実践したのは天皇や公家たちだった。鎌倉時代に入ると、そこの武家が加わる。


天皇は、象徴にふさわしい行為とは何かを追求するなかで、皇后の体現するキリスト教精神に影響を受けつつ、こうした仏教の考え方に改めて行き着いたのではないだろうか。これを仏教では「利他行」と言い「菩薩行」とも呼ぶ。菩薩は、自らの悟りのみを追い求めるのではなく、仏性のあらわれとして他社を救う行為を実践する存在のことである。皇室に法華信仰が生き続けてきたことを考えれば、こうした利他行や菩薩行と関係することばとして「不惜身命」のことが想起される。


天皇は象徴としてのあり方を追求することは、仏の道を歩むことを意味する。そのように考えたとき、象徴天皇の意義を国民全体が認識することができるのである。


来年4月で陛下も退任だね。いつまでもずっと長生きしていただきたい。思わず手を合わせたくなる本。超オススメです。


 


天皇は今でも仏教徒である (サンガ新書)