「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「近世往生伝の世界」(笠原一男 編著)

 


近世往生伝の世界―政治権力と宗教と民衆 (1978年) (教育社歴史新書―日本史〈175〉)


この本は絶版で手に入らないのだが、どうしても読みたくて図書館で探して読みました。さすが品川図書館!(・∀・)


「古代・中世・近世を通じて、ほとんどすべての日本人は、その生きざまと死にざまを仏教に教えられてきたといっても過言ではない。そこでわれわれは、仏教信仰に生きた日本人の生き方と死に方を、古代・中世・近世の歴史の中で探ってみようと考えたのである。その理想像を、最も物語ってくれるのが「往生伝」「往生論」である。そのエッセンスを紹介しよう。


往生伝は理想的信者は、いかに生き、いかに死ぬべきかを「伝記」の形で記したものであり、往生論は、いかに生きるべきか、いかに死ぬべきかの理想を「論理」で記したものである。これによってわれわれは歴史のなかの日本人が往生をとげるには、どのような生き方と死に方が聖・俗両面の生活の中で要求されたかを知ることができるのである。いいかえれば、極楽往生をとげるためには、どのような生きざま・人柄・すなわち人間的条件と信仰生活=宗教的条件が求められたかを知りうるのである。


なぜ深遠な仏教の哲学を通じて人々に法を説かずに、往生・成仏・ご利益の説話で法を説いたのか?『日本往生極楽記』の編者、慶滋保胤(よししげのやすたね)は「このなかに経・論二教を引いて、往生のことを証明した。これはまことに往生を勧めるのによい証拠となっている。ただし、一般衆生は智浅く、仏の救いの心が理解できない。もし実際に往生した者の伝記を記さなければ衆生の心を仏法に誘うことはできない」といっている。


・中国の往生伝である『瑞応伝』には四十余人の往生者をのせている。この中には牛を殺したり、鶏を殺して売る職業の者もいるが、彼らは臨終にあたって善知識にめぐりあい、十念して往生をとげている。自分はこれらの往生者の伝記を見るごとに、われわれもいよいよ往生できるという心が確固たるものとなる。


・往生のための宗教的条件は多神教難行苦行ともいうべきものであり、人間的条件は正直・慈悲・柔和等々の善人的人柄であった。


法然「あれもやってみたい、これもしてみたいと、常に雑念のある心を一つに統一することのできない人であっても、阿弥陀仏におすがりし、念仏をとなえさえすれば浄土に生まれることができる」といいっている。阿弥陀仏の名号をひとたび素直にとなえて、仏に全身全霊をささげたならば、自分の身でありながら実は私ではない。私と阿弥陀仏は同体である。同体であるから心も身の振舞いも、ことばも命も一挙手一投足が阿弥陀仏の行為そのものとなる。


善知識というのは臨終のとき、往生人の求めに応じて浄土に往生できるように念仏をすすめる人のことであり、日課念仏は念仏の教えをうけたとき、私は毎日必ず何返以上の念仏をとなえると阿弥陀仏に誓うことである。


極楽往生のすがたで眠るがごとく安らかに往生をとげた例が多いのは、いわば理想的な往生のすがたであった。また、死相が穏やかで歓喜に満ちているものや、遺体が生きている人と変わらない状態にあるという例も少なくない。さらに、往生時に紫雲がたなびいたり。異香が室に満ち、音楽が聞こえてくるといった瑞相の多いことや、舎利出現、往生の時期を予知するなど、さまざまな瑞相を伝えいている。(『尾陽往生伝』)


スゴイなあ…。ホントなのかなあ…。大往生を遂げたいよね。オススメです。(・∀・)


 


近世往生伝の世界―政治権力と宗教と民衆 (1978年) (教育社歴史新書―日本史〈175〉)