「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「少年マガジンの黄金時代〜特集・記事と大伴昌司の世界〜」

    


少年マガジンの黄金時代 ~特集・記事と大伴昌司の世界~


昨日に続く大伴昌司の本。確かにあの頃の少年マガジンは黄金時代だったよね〜〜!


「第一部は週刊少年マガジンの創刊から昭和40年代を中心に誌面を飾った特集・記事を厳選して紹介。第二部は伝説の名編集者・大伴昌司が携わった特集・記事をジャンル・年代順にまとめ、多数収録」表紙の朝潮太郎が懐かしい!そのエッセンスを紹介しよう。



・昭和41年ウルトラQ」「ウルトラマンがTBSより放映開始されると、少年たちはテレビの前に釘付けになった週刊少年マガジンが放映前に特集を組んだ。この記事を担当したのが大伴昌司である。この希代の天才編集者は、より緻密な情報を記事に盛り込んでいった。そして当時の少年たちが必ず一度は目にしたであろう「怪獣の解剖図」という手法を生み出す。この想像力溢れる図解はさまざまな記事に応用された。


・やがて昭和40年代半ばに入ると、中心読者である団塊の世代の成長とともに、記事は大人向けに変容を遂げていく。戦争、公害、第三世界、やエッシャーマグリットといった特異な画家の絵など、少年漫画誌とはとうてい思えない内容の記事が次々と掲載された。


少年マガジンの黄金時代」という言葉は巨人の星あしたのジョーといった代表的な漫画作品をイメージする人が多いかもしれない。しかし、その一方で記事が栄華を誇っていたのも紛れもない事実である。漫画と同等か、あるいはそれ以上に多くの人間がその記事作りに粉骨砕身していた。そして、多くの読者がそれを楽しみにしていた。


少年マガジンの図解グラビアの構成・担当者として登場した大伴昌司という伝説の編集者が担当していた(というより「君臨していた」)のは1966年〜1972年までの7年間。昭和40年代の「少年マガジン」を語ることは、そのまま大伴昌司を語ることと同義、といていいくらい、それらの特集はその世代の子供たちの想像力と知識欲を、圧倒的なインパクで刺激した。


・それまで子供雑誌にとってはタブーであったグロテスクさや社会の暗部といったものを大伴は大胆に取り上げ、少年誌というものの持つベクトルに多様性を持たせた。また石原豪人南村喬之(たかし)などといった個性あるイラストレーターを起用してビジュアルの効果を徹底的に活かした。


・今にして思えば、大伴の特集記事の題材の選択の仕方はかなり強引であった。「こんな題材を持ってくるか」「この題材をこういう見せ方で見せるか」という、大伴個人の超強烈な個性が、どこのページを開いてもむせかえるくらいの香りと共に伝わってきた。大伴の編集者としての特徴は、ジャーナリズムというよりはビジュアリストであるところに、情報の精度よりはインパクトを重視するところにあった。


 


▲ 力石徹の葬儀も大伴昌司の企画だった。


・大伴の代名詞となった怪獣解剖図解だが、怪獣をファンタジー的存在ととらえていた円谷英二は、この疑似科学的、かつグロテスクな図解を嫌っており、最終的に大伴と円谷の関係が途絶えたのも、それが原因といわれている。しかし、子供心にあの怪獣解剖図のインパクトは絶大なものであり、いまなお大伴監修の怪獣図鑑は復刻されて読まれている。少年たちの心をつかむことにかけては、絶対の才能を持っていた人間だった。



小松崎茂「地球大脱出 世界大終末」は、いまでも鮮明のビジュアルを覚えている。あの時代の息吹を感じるねえ。オススメです。(・∀・)


    


少年マガジンの黄金時代 ~特集・記事と大伴昌司の世界~