「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「芸能ビジネスを創った男 ナベプロとその時代」(野地秩嘉)

   


「芸能ビジネス」を創った男 ナベプロとその時代


この本はスゴイなあ。その昔は「河原乞食」といわれ、戦前からの怪しい興行の世界だった。芸能界。そこに新しい「芸能ビジネス」というのを生み出したのがナベプロ創業者の渡邉晋なのだ。そのエッセンスを紹介しよう。


渡辺プロダクションの創業は昭和30年。ザ・ピーナッツクレージーキャッツを筆頭に、中尾ミエ伊東ゆかり、園まり、梓みちよ小柳ルミ子天地真理アグネス・チャンザ・タイガースザ・ドリフターズ、森進一、内山田洋とクールファイブキャンディーズアン・ルイス、吉川晃司……昭和芸能史に残る膨大なスター歌手を擁し、49年のNHK紅白歌合戦には10組もの所属歌手を送り込んだ。また、植木等主演の無責任男シリーズ、を初めとする110本の劇場映画も製作し、ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデーといったテレビ番組も30本以上自主制作している。傘下には俳優専門の芸能プロダクション、楽曲の著作権を扱う音楽出版社、テレビ番組制作会社、録音スタジオといったグループ会社も抱えた。


渡邉晋が会社を設立する以前、芸能プロやマネージャーはほぼタレント収入に依存していた。だが、晋はその構造を一変させた。業務を組織化し、レコードやテレビ番組を自社で制作した。その結果、渡辺プロにはレコードの原盤制作収入や番組制作収入や番組制作費が入ってくるようになり、タレントの人気だけに頼らない多角的な経営ができるようになった。渡邉晋は芸能ビジネスを労働集約型から権利ビジネスへと変えた最初の人間と言える。そして彼の優れた点はプロデューサーとして第一人者でいたことだろう。タレントを発掘、育成するだけではなく、音楽、映画、テレビ番組とすべてのジャンルで、出演者とコンテンツをプロデュースすることができた。


植木等「私が思うに渡邉晋の偉さというのは私という所属タレントの生活を先々まで読んでいたということではないでしょうか。しかも、私だけじゃない。ハナ肇谷啓のことも先々まで的確に読んでいた。所属タレントの生活を将来まで考えられる経営者はいません渡邉晋だけです。それに私が社長だったら、自分の会社のタレントに金なんか絶対に貸しません。だって危ないでしょう。返ってくるかどうかわからない。人気が続くかなんて誰にもわからないのだから」


渡邉晋はジャズバンドのリーダーから芸能プロの社長になった。生涯の大半をトップとして過ごした。しかし、彼は独裁者でも、ワンマン経営者でもない。またひらめきのある天才肌でもなかったり、豪腕と呼ばれるほどの押しの強い男でもなかった。情熱で相手を説得するタイプでもなかったし、ひとつの目標に対して馬鹿になって突っ込んでいくこともなかった。おだやかで、他人の話をよく聞き、自分が目立つことを嫌った。スピーチもうまくはなかったし、雑誌のインタビューに出たことも少ない。自己主張もせず、金や権力を目的としてはいなかった。静かに主張をし、声を荒げることなく相手を説得した。そして他人に推される形でいつのまにか業界のリーダーとなり、仲間を引っ張っていった。それが渡邉晋という男の生き方だった


・彼が貫いたスタイルは、部下、友人、知人、年下の人間にどんなことでも相談し、周衆知を集め、目指す方向を決めたことだ。集めた情報を分析し、そしてビジネスに応用した。将棋の棋士のように盤面をにらみながら次々と手を打つというのが彼のビジネスのやり方だった。


その他、「やくざとの決別」「ロカビリーとウェスタンカーニバルの成功」「スーダラ節と音楽著作権」「渡邉家の大晦日」「業界内部の争い」「吉川晃司の登場」など。


ゼロからつくり上げるってスゴイよねえ。ベンチャーの鑑だねえ。オススメです。(・∀・)


   


「芸能ビジネス」を創った男 ナベプロとその時代