東京では見ないのに関西、テレビをつけると必ず見るタレント、やしきたかじん、それが私の感想だ。彼が「関西の視聴率男」と呼ばれていたのも知らなかった。
さて、この本。そのやしきたかじんの素顔とは?なぜ東京進出に失敗し、その後、東京の番組出演を避け、さらには東京への番組配信すら禁じたのか?2014年小学館ノンフィクション大賞優秀賞に選ばれた人物評伝。そのエッセンスを紹介しよう。
・たかじんの付き人「やっぱりコンプレックスのかたまりのような人でしたね。またそれがないと、(芸能界の)上に登られんかったような気がしますね。あるときに『お前、(両親が日本人で)よかったな』って言われたことがあるんです。僕はそのときあんまり深く考えへんかったですけどあとで、ああ、そんなこと(差別)もあるのか、と思いました」
・ブレーク前の笑福亭鶴瓶と初顔合わせした二人が見せた芸は、まず鶴瓶が客のリクエストを聞き、たかじんの体の一部を押す。“人間ジュークボックス”のたかじんは、ギターを弾きながらそのリクエストに応える。その後、ともに売れっ子になる二人だが、無名時代にはこんな仕事まで引き受けていた。
・徹底した現場主義は、新聞記者であったことと無関係ではないだろう。91年に雲仙普賢岳が噴火したときには、自費で現場におもむき、取材を敢行している。その成果を、自分が出演する番組で報告した。たかじんは形式を嫌うとともに、聞く者を虜にすることにも心血を注いだ。「舞台に上がったら、15秒で客をつかめ」「ライブをするときは、必ず笑わせるネタを三本つくれ」「話は七割はほんまやけど、三割は盛れ(誇張せよ)」たかじんが実践してきた話術のエッセンスである。話術に磨きをかけるため、家では落語家・桂米朝、桂枝雀のテープをよく聞いていたという。
・しゃべくりは、いかに簡潔に、面白おかしく語り、どう落とすか、命である。たかじんのそれは、どれも見事にクリアーしている。
・歌手・やしきたかじんの番組に取り組む姿勢は、どのタレント、製作スタッフより真剣であった。付き人だった打越元久が証言する。
「テレビ番組をつくるときに、自分の部屋にディレクターとかスタッフを呼んで話し合いをするんです。それで意見が合えへんかったら、殴り合いになるんです。瀬戸物の灰皿で頭をゴツンとする。『危ないですよ!』言うたら、今度はそれを投げる。みんな血まみれになりながら、たかじんさんにビビってましたよ。勢いが全然違うかった。これだったら(他局の番組に)絶対負けへんやろと思いましたね」
・後輩と飲んだ際、説教する癖があった。「六時間ぐらいは説教を聞かなアカンのですよ。まず『お前はこれからどないしたいねんや』って後輩に聞く。その答えが自分が思てるようなのじゃなかったら、暴れますね。『それで正しいと思とるのか』って」自分の考えをきちんと持ち、それを実行しようとする者には共感するが、そうでない者には厳しくあたった。
・「たかじんさんにとって一番怖いもの、怖い人は?」「怖いのは舞台で、怖い人はお客さんです」
・「僕はテレビにでても、緊張も何もせえへん。あんなもん屁みたいなもんや。コンサートやレコーディングやるときなんか、テレビの100倍は緊張するからね」
・たかじんが歌っているときは、会話をしてはならないのが不文律だった。ところが初めて彼とカラオケに行く人間は、それを知らない。同僚に話しかけているホステスに怒ったたかじんが、テーブルをひっくり返したり、マイクを投げつけたり、はたまたうどんを頭からかけることもあった。不文律は多岐にわたった。足を組んではならない、食べてもいけない、タバコを吸ってはならない、携帯電話の電源は切っておかなければならない、間奏中に拍手はしないほうがいい……。自分が一瞬でも注目されないとわかると、ふてくされた。たかじんにとっては、たかがカラオケでは済まされなかった。歌手休業中であっても、手を抜いて歌うことはけっしてなかった。
・大阪を愛し、大阪に愛された男は、大嫌いだった東京で、わずかな人に見守られ、荼毘に付された。
・人気タレントになっても、彼は本業であることを自覚していた。歌にかける情熱は、半端ではなかった。コンサートで歌い始めるとき、あるいは歌い終わったときの深々としたお辞儀がそれを物語っている。しかもどの歌手よりも頭を下げている時間が長い。歌と聴衆に向き合う態度は真剣そのものだった。しかしどれだけ歌に対して情熱があろうが、作曲、歌唱の才能があろうが、歌手としてよりもテレビタレントとして知られたのは皮肉である。夢を追い続けることがいかに困難であるかを、やしきたかじんは教えてくれたような気がする。
タイトルはデビュー曲「ゆめいらんかね」。改めて真剣に聴いてみた。声がいいよね、歌上手いよね。人気タレントの光と影。オススメです。