「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗」(円谷英明)

私が子どもの頃の二大特撮ヒーローといえばもちろんウルトラマン仮面ライダーだ。

しかし!いまでは円谷プロは他社の資本が入り、一世を風靡した円谷一族は一切の関わりがなくなってしまっているのだ…。なぜ円谷プロは失敗したのか?栄光の光と影とは?そのエッセンスを紹介しよう。


円谷プロはミニチュアや気ぐるみを駆使し、あたかも実写のように見せる特撮(特技撮影)で、日本のみならず世界の映像業界をリードしてきた制作会社です。私の祖父、円谷英二が戦後に創設した「特殊映画技術研究所」であり、後に円谷プロダクションと改名され、ゴジラモスラを大成功に導き、「世界の円谷」「特撮の神様」などと呼ばれ、ウルトラQ」「ウルトラマンに始まるウルトラシリーズなど、多くのテレビ番組や映画を世に送り出しました。


ウルトラシリーズや怪獣などのキャラクターを使った玩具や文具、菓子などの商品が販売され、著作権ビジネスの走りとして「円谷商法」と呼ばれました。各地の特設ステージで開かれたウルトラマンなどのキャラクター・ショーには子供たちが殺到し、日本各地から引っ張りだこだった時期もあります。


・しかし特撮番組には多くの人手と多額の経費がかかり、当初から慢性的な赤字体質でした。「怪獣ブーム」はいくたびかの浮沈を繰り返すうちに先細りになり、テレビ番組の視聴率も落ちて、資金繰りに窮したことから、円谷プロは他社の資本参加を仰ぎ、円谷プロ玩具メーカーやパチンコ機器販売会社の傘下に入ることなりました。


我々円谷一族の末裔は、祖父が作った円谷プロの経営を全うすることができませんでした。現存する円谷プロとは、役員やおろか、資金(株式)も含め、いっさいの関わりを断たれています。これから半世紀にわたる円谷プロの歩み、真実の歴史を明かそうと思います。その中には、今もウルトラマンを愛してくださる皆さんにとって、あまり知りたくないエピソードも含まれているかもしれません。


ウルトラマンのコンセプトは、どうしてここまで変える必要があったのかと思えるほどコロコロ変わりました円谷プロが、そうせざるを得なかった一番の理由は、新シリーズが始まるごとに、あるいは始まった後も、テレビ局から、「設定やストーリーなどの内容は、今の時代に合わせたものにしてほしい」と依頼されたからです。結局、ウルトラシリーズには,その時々で適当に変えてしまうご都合主義=「しょせん子供番組なのだから何をしても許される」という言い訳が、常に付随していましたウルトラシリーズの変遷を見て、大人になったファンは次第に離れていきました。ときには嫌悪感すら抱かせてしまったことが、円谷プロ「最大の失敗」だったと思います。子供は親の表情を常に見ていて、親の感じ方に敏感に反応するものです。


ウルトラマンが泣いているー今にして思えば、現実の世界でウルトラマンを悲劇のヒーローにしてしまったのは、我々円谷一族の独善か、驕りだったのでしょう。


その他、円谷プロの不幸」「テレビから消えた理由」「厚かった「海外進出」の壁」「円谷プロ「最大の失敗」」「難敵は「玩具優先主義」」「円谷商法「破綻の恐怖」」など。


中でもウルトラマン」と「仮面ライダー」、「機動戦士ガンダム」との違いは実に深い。一時的成功と永続的成功のヒントがここにある。オススメです。(・∀・)!