「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「企業家活動でたどる日本の食品産業史」(宇田川勝:監修)

   

この本は、何気に感動するよー!(・o・)

私たちが当たり前だと思っているものでも、誰かが作り、発明し、行動し、普及していったのだ。その中でも身近な、食品産業の開拓と発展に貢献した熱き企業家たちの姿が学べる1冊。なかでもサントリーの創業者・鳥井信治郎を紹介しましょう。


鳥井信治郎サントリー)】


1879(明治12)年大阪生まれ。父は両替商→米屋を営む。信治郎は13歳のとき薬種問屋小西儀助商店(現在のコニシ株式会社)へ丁稚奉公。小西儀助商店は主に漢方薬を取り扱い、西洋の薬も輸入し、ブドウ酒やブランデーなどの洋酒も手がけていた。信治郎にとって丁稚奉公はかなり苦しいものだったが。そこで化学の知識や薬品の調合技術を身につけ、洋酒についても知識や製造方法、さらに微妙な味と香りを嗅ぎ分ける舌と鼻を養っていった。


そして1899年鳥井商店(のち寿屋洋酒店)を開業。主にブドウ酒の製造販売を行っていた。といって、アルコールに砂糖や各種の香料を混合してブドウ酒に近い風味を出したいわゆる合成酒だった。やがて本場の輸入ワインを売りだそうとしたが、スペイン産のブドウ酒は当時の日本人にとって酸味が強すぎて舌になじまなかった。信治郎は日本人の舌に合う少し甘目のブドウ酒を何としても作ろうと思った。やがて「この酒は世界のどこにもない、日本のブドウ酒、日本のポートワインや」と、独特な味と品質の甘みブドウ酒=赤玉ポートワインだった。1907年販売。


信治郎はウイスキー製造を車内で打ち明けたとき、社員全員が反対した。ウイスキー事業は莫大な資金を要する上に、出来不出来は長年の貯蔵を経てみないとわからない。それゆえ製造方法の良し悪しも、短期間では判断できない、ましてウイスキー醸造スコットランド以外の地で成功したことがなかった。たとえ醸造に成功したとしても、消費者に受け入れられるか不明である。ウイスキー事業への進出は、「赤玉ポートワイン」で軌道に乗った寿屋の全資産を賭けるものだった。スコットランド醸造学の権威、ムーア博士からスコットランドウイスキーを学んだ日本人がいる。自分の代わりに彼を雇ったらどうか」という手紙を受けた。その人物の名は竹鶴政孝と記してあった。1923年山崎工場の初代工場として、日本初の本格的なウィスキー製造が開始された。


苦心の末にできた国産初の本格的ウィスキーサントリーウィスキー白札」は1929年発売。「サントリー」の名称は、「赤玉ポートワイン」の商標「赤玉」を象徴する太陽(サン)と自分の名前(トリイ)を結びつけたものである。しかし評判は「焦げ臭い」などと厳しい評価で1931年には原酒の仕込みを断念した。信治郎は再び技術者をスコットランドに派遣しウィスキー製造について研究させた。信治郎は、ウィスキー事業の成功を信じて、原酒の改良に努めるとともに、粘り強くブレンドを繰り返していった。こうして1937年12年もののサントリーウィスキー角瓶」を発売した。じっくり熟成された原酒のうまみと、信治郎のブレンドの才能と努力が結集したものだった。すっきりとした亀甲切子の角瓶も大きな特長だった。発売後3年後には、売れて困るという事態を招来した。山崎工場の庫出料は、1930年の17キロリットルから1940年には291リットルまで増加した。こうして信治郎は、日本の洋酒国産化への道を切り開くことに成功したのであった。


信治郎の口ぐせに「やってみなはれ」という言葉がある。会社のため、顧客のため、さらに社会のために何か役立てるものはないかと常に考え、よかれと思ったらこれを即実践していったのである。ウィスキー事業に挑戦する際も、信治郎は自分自身にこの言葉を投げかけていたと思われる。寿屋の歴史は常に新しいものに果敢に挑戦していった軌跡でもある。


その他、三島海雲(カルピス)」「二代鈴木三郎助(味の素)」「中島董一郎(キューピー)」「鈴木藤三郎(台湾製糖)」「相馬半治(明治製糖)」「藤田田日本マクドナルド)」「安藤百福日清食品)」「二代茂木啓三郎(キッコーマン)」「七代中埜又左エ門(ミツカン)」など。


どのページから読んでも企業家(起業家)の躍動感が伝わってくる!オススメです。\(^o^)/