「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「反芸術アンパン」(赤瀬川原平)


あの名作超芸術トマソンを世に送り出した赤瀬川原平氏の「反芸術アンパン」。姉妹編かなあ…とおもったら全然違う本でしたー!(・∀・)


「年に1回、上野の美術館で開催されていた読売アンデパンダン。それは、出品料さえ払えば誰でも出品できる無審査の展覧会で、1960年代には絵の具とガラクタと青年たちの肉体と頭脳とが灼熱した坩堝だった。当時、出品作家でもあった著者が、目撃者として、作品や読売アンデパンダンで培養されつつあった不確定性の芸術〈ハプニング〉について描く」そのエッセンスを紹介しよう。


・1963年に第15回をもって終わった読売アンデパンダン。毎年一回、上野の美術館で開催されていた、無審査の展覧会である。出品料さえ払えば誰でも出品できる。会期はいつも三月はじめの二週間で、私にはその二週間が一年の内の最高の時間だった。一年のうちのそこだけは、自分の存在を表現として自分の拳骨にしてみると、その場所は沈黙が膨張して爆発する無重力空間のようだった。私の一年間はその二週間のためにあるようなものだった。それは私だけでなく私たちで、そういう若者が大勢いたのだ。私たちには一年のうちのその二週間が、ほとんど生きがいだったのだ。その生きがいの二週間への出品作が、なぜ自己破壊的なものとなっていったのか。


読売アンデパンダンの中止のニュースはたちまち若い画家たちの間を駆けめぐった。そしてみんな呆然とした。私の気持ちは複雑だった。たったひとつの窓を閉じられた絶望感の裏側に、何かホッとするような気持ちもあった。


・そこが無審査という自由空間であり、しかも新聞社が主催するということで、その運営からも自由であった。つまり自主的という責任からも自由だった。だからそこに表現を拳骨にして突き出すことができた。その拳骨には企業への反抗も混じっていたかもしれない。その分だけ表現は過激に、破壊的になっていく加速度を増した。たぶんこれは、ある方面からは芸術家の甘えだといわれるだろう。過激といっても、それはただの無責任な甘えではないかと。それはそうなのである。その過激な甘えが、そこに絵画の廃墟を築き上げたのだ。その後の公認された現代美術といわれるものは、その過激な甘えによる破壊の跡から、表現の種を拾い上げて、それを分担しながらキチンと植木鉢で育てたものだ。


表現者の「変質者」はいつごろから出没してきたのだろうか。はじめのころの読売アンデパンダンには、いったいどんな作品が並んでいたのだろうか。頼りになるのはその作品自身の痕跡か、あとはやはり人々の記憶である。初期読売アンデパンダンの掃き棄てられていない記憶を、誰かまだ残していないだろいか。


それは美術館と動物園がいっしょになったような楽しい場所である。その渾然とした未文化の活力こそが、完全管理の公募展には探しようもないものだった。そしてそのような自遊空間の雰囲気を最大限に代表するようなものとして、人一倍の好奇心と、野心と、表現衝動に突き動かされた若者たちの活動がただ目立っていたのだ。


なるほど…。芸術ってこういう風に生まれるんだねえ…!オススメです。(・∀・)