「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「プロ野球 レジェンドが語るあの日、あのとき」(編サンケイスポー

私が小学生の頃は、読売巨人軍は、王、長嶋のON砲が活躍し、V9の真っ盛りだった。

あの場面、長嶋は、王は、金田は何を考えていたのか。誕生から80周年を迎えたプロ野球。その歴史に名を刻んだかつての名選手や名監督たちに、自身の回想をもとにプロ野球史をたっぷりと振り返ってもらった。とっておきのエピソード…そこには、プロ野球を愛してやまないレジェンドたちの熱き想いがあふれていた!」そのエッセンスを紹介しよう。


王貞治 現役引退直後にユニホームを脱ぐべきだった】


荒川博さん抜きに「一本足打法、フラミンゴ打法の王貞治」は誕生していません。本所中学2年の時、陸上部、卓球部、野球部にも入っていましたが、地域の「厩四(厩橋四丁目)ケープハーツ」という草野球チームでもやっていました。ホームグラウンドは隅田公園だったのですが、たまたまその日はグラウンドがいっぱいで、仕方なく今戸グラウンドで試合をやっていて、たまたま通りがかった荒川さんが見ていて「君は左投げ右打ちだけど、本当は左?打つのも左にしてみたら」とすすめてくれたのです。それで左打席で打ってみたら右中間二塁打。その日から左打ちになりました。荒川さんは毎日の巧打者で近くに住んでいたのです。「何年生?」と聞かれて「2年生です」と答えましたが、体が大きかったから、荒川さんは高校2年生だと勘違いしたらしい。中学生だとわかって、「それなら(自身の母校の)早実高に入りなさい」とアドバイスしてくれました。本当に不思議な出会いです。今戸でやったのはその1試合だけ。たまたまが重なって、早実高ー巨人というレールが敷かれました。プロ入りして4年目、なんとその荒川さんが打撃コーチとして巨人にやってきたのです。


・何度も言うように、ホームランを打ちたくて一本足打法にしたのではありません。私のあとに何人か挑戦しましたが、成功した人はいないと思います、なぜだと思いますか?彼らはホームランを打とうとして取り入れたからです。私はホームランを打ちたいと思ったことなど一度もありません。振り遅れる、食い込まれる、詰まる、という悪循環を断ち切りたくて、わらをもつかむ思いで一本足打法に転向したのです。もともと、私はボールを遠くに飛ばす技術を持っていました、これは球を捉えるタイミング、距離を打席でつかんでいるかどうかにかかっているのですが、私にはそれがありました。


・現役を引退しようと思った理由は3つあります、1納得できるバッティングができなくなったこと 2 たった30本塁打しか打てなくなり、ファンを失望させたくなかったこと、3 低いモチベーション……です。


・おやじは中国(浙江省青田県四都)からの出稼ぎです。電気も通っていない、もちろん医者なんていない貧しい村だったそうで、日本で成功して息子の一人を医師に、もう一人を電気技師にして故郷に錦を飾ることを夢見ていました、だから兄は医者になりました。私は大学の理工系に進み、電気技師になるつもりでした。おやじは戦争中、強制収容されたりしましたが、日本で生かされているという意識が強く、「感謝」と「お役に立ちたい」が口癖でした。私が早実高から巨人に入団した時も、新聞記者の皆さんに、「貞治は巨人やファンの皆さんのお役に立ちますかねえ?」と聞いていました。


金田正一「長嶋と王をバックに野球をやってみたかった」、広岡達朗「一塁送球を捕ってくれない川上さんから学んだこと」、関根潤三「「二流の二刀流」でも人の道は外さなかった」、古葉竹識「強く育てるために選手には手も足も出した」、長池徳士「手のひらも甲も腫れた苦手な内角球の特打」、若松勉中西太さんに「野球は身長でなく下半身だ」と誘われた」、杉下茂「実はあまり投げていなかった?魔球?フォークボール」、長嶋茂雄「「永久に不滅です」は、用意したフレーズではない」、など。今となっては、貴重なインタビューだ。野球ファン必読。オススメです。(・∀・)