「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「金城哲夫 ウルトラマン島唄」(上原正三)

ウルトラQウルトラマンウルトラセブン等の円谷プロ作品が好きな人は知っているだろう、金城哲夫の名前を。もちろん、私は子どもの頃から知っております。(・∀・)


ウルトラQに始まる怪獣ブーム、怪奇大作戦を最後に沖縄への帰郷、37歳突然の事故死…。金城哲夫の光と闇、心の根底にあった戦争の傷痕へと迫る、不滅のヒーロー・ウルトラマンを創った男の知られざる物語。そのエッセンスを紹介しよう。


金城哲夫は、出会った時から異次元の男だった。若干24歳にして映画の制作、脚本、監督をこなしてしまうしたたかさ。才能も桁違いなら思想や価値観、性格も大きく違った。円谷プロでの4年間。金城は異次元の男らしく想像を絶する奇想天外なストーリーをいとも簡単に発想した。円谷プロの企画室長としてウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「快獣ブースカ」「マイティジャック」「怪奇大作戦等を企画立案し、各作品の脚本も手がけた。しかしせっかく築いたシナリオライターとしての名声と地位をあっさりと捨てて帰郷してしまった。それにしても金城の死は早過ぎた。類い稀な才能を持ちながらその半分も発揮しないで逝ってしまった。惜しい、悔しい、私は今でもそう思っている。


ウルトラQ」「ウルトラマン」の頃、金城哲夫はどんな日々を送っていたのか。この頃の金城は試行錯誤を繰り返して一番苦労していた。だがそれは「無」から「有」を生み出すための嬉しい苦労であった。円谷プロも若いスタッフも、円谷英二が掲げた作品優先の旗の下、「借金なんてしゃらくせぇ、いい作品を作るのが先だろうが」ゼニ金のことに頓着せず目的に向かって遮二無二突き進むエネルギーがあった。まさに夢を見る大集団、理想の創造工房であった。


・その1 金城哲夫円谷プロをそのような創作活動をしたか。
 その2 金城哲夫が私に示してくれた友情と大きな包容力について。
 その3 金城哲夫は何故円谷プロをやめて帰郷してしまったのか?

あの時、金城を心の奥で衝き動かしたものとは?金城哲夫が不慮の事故で逝ってから23年。この本が金城哲夫の鎮魂になればと願っている。


・金城のストーリーは多彩で変化に富んでいた。宇宙あり、地底あり、海底あり、寓話あり、科学優先主義への警鐘あり、素材に変化をもたせ、語り口を変えて自由闊達。その創造力はとどまることを知らない。どのエピソードにも芯を一本ピシっと通して荒唐無稽に終わらせていない。


金城は、優れたシナリオライターであったが、プロデューサーとしても非凡な才を見せていた。そうでなければ26才の若さで円谷プロを代表して仕事することはできない。各局のプロデューサー、日本を代表するSF作家、多くの先輩シナリオライター、映画界やテレビ界を代表する監督、いずれもクセの強い猛者を相手に企画をまとめ、ストーリーや脚本に注文をつけて書かせる。しかも、相手に注文を出しながら自分で穴埋めもする。


金城は、豪放磊落でとても陽気な男。誰の前でも物怖じしないし、負けず嫌いで決断したら実行してしまうブルドーザーのような行動力も持ち合わせている。その反面、劇場化で涙もろい。世話好きで無類のお人好し。デリケートで傷つきやすい一面がある。

「これがウルトラQだ」「吉屋ルチー物語」「ウルトラマン誕生」「セブン・マイティジャック・怪奇大作戦日本と沖縄の架け橋になろうと奮い立った、金城氏の人生は実に波乱万丈だった。もし、彼が生きていたら!?どれほどの実績を作っただろう…。すべての円谷プロファンに贈る。オススメです。(・∀・)