ケータイの乗換案内って便利だよね。毎日使ってるけど、これがなかった頃のことを想像できないよね。(・∀・) 今や時刻データは当たり前のように手に入る時代となったけど、この当たり前の背後には「正確さを使命」として時刻表制作に携わっている人々がいた。そして今でもいるのだ。その時刻表制作秘話を紹介しよう。
・「JR時刻表」の前身である「全国觀光時刻表」が発刊されてから半世紀。いまではほとんどなくなった活版印刷の時代が約30年間続く。今とは違いすべて手作業で、原稿用紙に手書きで数字を埋めていき、印刷会社では、一文字一文字活字を拾い、ページを作っていた。
・明治6年の駅の時刻表は、もちろん縦書き漢数字で表され「時」は「字」と表記されていた。つまり、鉄道開業のその日、特別列車は「十字」に新橋を出発し、午前「十一字」に横浜停車場に到着したのである。また、当時は「切符」ではなく「切手」という言葉を使い、小荷運賃早見表のなかには戦時下の世相をあらわしてか、「死体運賃表」も掲載されていた。
・ダイヤ改正の時期には、社内での残業では追いつかないので、会社近くの旅館で泊まり込み合宿態勢に入る。畳の敷かれた部屋の真ん中に机が集められ、編集部員は一日中浴衣のまま四方から頭をつきあわせるようにして仕事をする、十何時間経ち、深夜も過ぎると、そのうちの一人が後ろにひっくり返って眠り始める。彼らの後ろには、それぞれ布団が積まれ枕が置いてある。その布団に寄りかかって寝てしまう。
やがて明け方、他の編集部員が同じように後ろにひっくり返って眠り始める。すると数時間前に寝た者がむっくりと起きだし、何事もなかったかのように仕事を始めるのだ。この旅館はラブホテル(連れ込み旅館)。当時はビジネスホテルなどまたありはしないし、観光地でもないので、一般の旅館もあるはずはなかっただけのことである。
現在のパソコンには「コピー機能」があり、マウスの操作ひとつで簡単にデジタルデータをそっくり複写できる。ところが活版では、新たに活字と罫を組まないと同じ版はつくれないという弱点があり、これがダイヤ改正時の忙しさに拍車をかけていた。
その他、「活版時代の時刻表制作」「活版から電算写植へ」「JR時刻表で比較する50年今昔」など。
「乗換案内」を使う度に感謝の気持ちが感謝の気持ちが溢れでるなあ。オススメです。(・∀・)