「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ジャンケン文明論」(李御寧=イー・オリョン)

いや〜良い本に出会いました。(・∀・)これだから読書はヤメラレナイっ!


「誰も勝たない、誰も負けない、東洋独自の循環型の文明―著者はそれを「ジャンケン文明」と呼ぶ。西洋型の近代文明は、二項対立の「コイン投げ文明」であった。だが、そこからはもう「衝突」しか生まれてこない。今こそ東アジアが、日本、韓国、中国の新しい関係を携えて、その独自の文明の豊かさを世界に発するべきではないか…。「拳の文化」をたどり、時代を読み解きながら考える、「共存」のための文明論」そのエッセンスを紹介しよう。


・なにかを決めるとき、西洋の子どもはコイン投げをするが、アジアの子どもたちはジャンケンをする。表か裏かその片面だけで決めるコインは、「実体」であり「モノローグ」である。だが、相手の手と取り組んで意味を生むジャンケンは、「関係」であり「ダイアローグ」だ。


・コイン投げは、ことばどおり、コインのようなモノがないと不可能だが、ジャンケンは、なんの道具も使わない。手だけあればいい。コイン投げは一人でもできるが、手を使って勝負するジャンケンは、文字通り相手がいないとダメだ。そこでコインを投げるときは、落ちて転がるモノの動きに目をそそぐが、ジャンケンをするときには、人の心を読む。


「新幹線きっぷうりば」という案内板。「売り場」とは、あくまでも売り手を中心にしたことばである。切符を買う乗客の立場では「買い場」のはずだ。でも「切符買い場」とはいわない。学生は学校へ行って「教室」に入り、疑いもなく自分が習う本を「教科書」と呼んでいた。教える教師の立場からは、教室であり教科書であるが、習う生徒にとってはとんでもないことばだ。教室は学室であり、教科書は学科書であるからだ


・西洋では「切符売り場」を「教科書」をなんと呼んでいるのか。「チケット」と「テキスト」だ。売る人でも買う人でもない。教える人も習う人もない。ただ「モノ」だけがある


・かならずといってもいいくらい漢字の命名法は、異なる両面を二文字で結合している。アルファベット圏の人たちのように、一つの門をエントランス(入口)とエグジット(出口)に分けて、別物のような呼び方をしない。簡単に「出入口」といえばいいのだ。


「手」は日本文化の特色を解くキーワードの一つである。書籍のことを「手本」と呼び、書簡を「手紙」と呼んでいるのは、日本だけのことである。日本人はなにかを思い通りに扱うことを「手の内に丸め込む」という。だから手の中に入れることができないものは、どうも「苦手」だ。「手にあまるもの」になり「手に負えないもの」になる。物だけではない。「話し手」「聞き手」のように、当然、耳と口を使うときでも、なぜか人を代表しているのは手のほうである。絶対手を使ってはいけないサッカーの競技でも、そのプレイヤーは「選手」と呼ばれているのと同じだ。


・投げられたコインは地面に落ちる。かならず表と裏の両面から一面は下に伏せられてしまう。排除され消去されてしまうのだ。人はコインの両面を同時に眺めることは不可能だ。だが、「グウ」と「パー」の対立の中間には、鋏の「チョキ」がある。だから何を出しても一人勝ちにはならない。すべての拳は「三すくみ」の秩序のなかで動いている。コインにすべてを任せている状況とは違い、拳を打っている人は相手の心を読もうとする。


やっぱり21世紀はアジアの時代だね。日本の時代だね。オススメです。(・∀・)