人間国宝も文化勲章も断り、ひたすら絢爛としたやきもの美の世界を切り拓いてきた、陶芸の巨匠・河井寛次郎。 最近、知ったのだが、その生き方に心惹かれた。晩年は、無名陶を説き、自分の名を記すことさえもしなくなった河井。その無欲さはまるで悟り開いた僧侶のようだ。その評伝がこの本。そのエッセンスを紹介しよう。
・今の日本は戦争に負けて、何もかも失ってしまっている。無の上に立つ民族だが、こうした貧しい暮らしの中から本当の文化、堅実で明るい芸術が生まれてくる。わび、さびは貧しさの美しさですよ。いらずらに労力をかけるだけの精巧な工芸品は奴隷のやる仕事です。外国の物真似だけでは、国籍のない浮浪芸術しか生まれてこない。頭でっかちも駄目ですね。民族の正しさに生きるためには、まず私たちの暮らしを美しくすることです。そして、日常使いたくなるようなものを作っておけば、新しい時代にふさわしい美しいものが、必ず生まれてくるのですよ。
・美はいくら追っかけても逃げてしまう。美に追っかけられるような暮らしをすることが第一ですね。私の仕事は、新しい自分を発見するためだが、新しい生命が見つかったときの喜び、それが美の入り口ですよ。
・「不美不存」と陶板に描く。河井の眼は美しいものしか見えないのである。みにくいものが見えない盲目だから、この世にあるものはすべて美しく、みにくいものは迷い、と言い切る。美しいものばかりだから、あえて美を追わないが、汗を流した仕事には、その酬いとして喜びの満ち溢れた美が贈られるのである。背後にある大きな力に導かれて生み出された仕事である。河井には創造という意識はないが、手や足を通してそのこころが自然に表現されているのである。
・同じ底辺をもった無数の三角形、これが人間ですよ。底辺は私たちが生かされている、ということで、底辺だけの原始人もいるが、暮らしの安定している二等辺三角形の人もいる。いま世界中に二十億人の三角形の人間が住んでいるが、鈍角形もいれば鋭角形もいる。どれも似ているが、同一ではない。頂点に美を求めると床の間の飾りものになるが、私たちの仕事は、いのちと結びついた底辺をねらうべきですよ。
・子供の頃には、家の中に神様も仏様も共におられるように感じました。そういう感情は、そのまま今日までつづいています。成長してからは、聖書でも仏典でも、その宗教的情緒を通して読むようになりました。聖書の教えをも、仏典の教えをも、子供の頃の宗教的感情と区別して考えることが、私にはできないのです。
・一番うれしいことは仕事に精出すこと。一番きらいなのは、無形文化財とか名誉賞の話、これなどは、頭からふとんをかぶって寝こみたいくらい。
はあ…勉強不足だったなあ…河井寛次郎の作品をじっくり見てみたい。オススメです。(・∀・)