酒場のギター弾き 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「物乞う仏陀」(石井光太)

衝撃的なタイトルに惹かれて読みました。どういう内容なのか!?どういう意味なの!?平和な日本にのほほんと暮らしているワタシの頭をガーン!と殴られたように一気に読んでしまいました!♪

 

「アジアの路上で物乞いをする子供や障害者たち。彼らと共に暮らし共に食らうことによって、その実相を伝える衝撃の大宅賞候補作」そのエッセンスを紹介しよう。

 

どの国にも、障害のある物乞いはいた。盲人、聾唖者、手足の欠損社、ハンセン病や象皮病をわずらった物、あらゆる種類の障害者が路上にすわりこみ手をだし慈悲を乞うていた。中国だろうと、タイだろうと、インドだろうと、イランだろうと、それは変わらなかった。なぜ、彼らは手足を失い、物を乞うようになったのだろう。と同時に、障害者は各国でどのような状況に置かれているのだろうか。私はその答えを知りたくなった。もう一度彼らと出会い、どんな人生を歩んできたのか教えてもらいたいと思った。いても立ってもいられなくなった。
 
物乞いをする時、彼らは義足をはずし、一様に悲痛な表情をつくる。より大きな同情を買うためである。足を失った哀れな存在なのだと訴えることによって、喜捨を少しでも多くもらおうとしているのだ。
 
・私が仲良くしていた乞食、坊主頭の26歳の元兵士、リンは実によく酒を飲んだ。いや、私が出会ったシェムリアップの乞食はみんな酒を飲んだ。彼らの多くは、一日の収入をその日のうちに使い切ってしまう。使途は、酒、もしくは女のいずれかである。
 
どうしてこんなに活き活きとしていられるのだろうと思った。彼らは暗く沈んだ町の最底辺で生きる人間である。にもかかわらず、金持ちや裕福な外国人の何倍も生命力のあふれ、活気のある笑い声をだしている。彼らは心に闇をもっていないのだろうか。
 
・天使の都、バンコク。東南アジア有数の大都会である。盲目の女性がマイクを握りしめて歌をうたい、道端では車椅子の男性が宝くじを売っている古典楽器の演奏をする夫婦も、足のないお菓子売りも、象皮病の乞食もいる。ありとあらゆる障害を背負った者たちが思いつく限りのことをしている。ドリアンの臭いと排気ガスがただよう町で、彼らは背を丸めて慈悲と金を乞うているのだ。彼らの仕事は大きく3つに分けられる。
1 宝くじ売り 2 演奏家・歌手 3 その他物売り
 
乞食にとっての重要なセールスポイントは、幼いこと、病気・障害をもっていること、悲惨な姿をしていること、の3つである。
 
・家や家族を失い、路地で丸くうずくまる哀れな人。私にとっての「乞食」とはそういう人たちだったと思う。この旅は私の「乞食」についての認識を変えたたしかに乞食はどこの国でも厳しい生活を余儀なくされ、一日一日を必死で生きている人たちである。乞食たちの生活はつらく厳しい。しかし、信じられないほど明るく活き活きとしている。暗い生い立ちや過去に背を向けて前へ前へと進んでいる。暇があれば仲間と冗談や猥談に花を咲かせ夜になれば「また明日」と言葉を交わして家路につく。
 
「わしは眼が見えないし、学歴もない。できるのは物乞いしかない。だから乞食になったんだ。なぜそれが恥ずかしいんだ?」
 
確かに彼らは物を乞い、その日の食にも困っていたかもしれない。病を治す術もなく、奴隷のように扱われいた者もいた。ただ、その一方で、カンボジアの地雷障害者は酒を飲み娼婦を買っていたし、ベトナムの物売りの子供たちは星空の種類の下で笑い話に興じていた。インドの眼をつぶされた男の子だって笑顔で遊び相手を探していた私は思う。物乞う仏陀の旅によって触れ合い、見てきたものは、人の生きる姿そのものではなかったのではないだろうか、と。
 
「死神の村にて(戦争障害者の村)」はスゴいねえ……こんな村があるのか……世界は広いなあ。「事実は小説より奇なり」だねえ。超オススメです。(・∀・)