「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「歴史不思議物語 日本史の闇を照射する」(井沢元彦)


昨年からハマっている、井沢元彦氏の歴史シリーズ!今年は全著作を読破しようと企んでいるのだ。実にオモシロイ!「謎・闇・ロマンに鋭く迫る。日本史の大事件、人物像の定説が大逆転!井沢史観が疾駆する歴史ロマン紀行 」その中で最も響いたページを紹介しよう。


壬申の乱はクーデターだった!】


壬申の乱は日本の歴史市場最も有名な反乱の一つである。国語辞典にも載っている。


天智天皇の死後、長子の大友皇子弘文天皇)を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇帝大海人皇子天武天皇)が672年壬申の夏に起こした反乱。一ヶ月余の激戦の後、大友は自殺。大海人は飛鳥浄御原宮に即位し、日本の律令制が確立する端緒となった。(広辞苑


そもそも壬申の乱というものは、日本における「新羅」と「百済」の代理戦争であると考えられることになる。671年の時点で、唐と組み新羅を討つという考えの天智グループと、これまでの外交方針を変更して新羅と友好関係を樹立すgべきだという天武グループが、申告な対立をしていた。


歴代天皇のなかで、ただ一人、天武天皇の年齢(死亡年齢)が記載されていない。もちろん天皇なのだから、没年ははっきりしている。だから生まれた年か、天智天皇の弟だというならいくつ違いか、それさえわかれば天武の年齢は確定するはずである。しかし、実際には記載されていない。これはなぜか?


いちばん合理的な解釈は、天智と天武が兄弟だったというのはうそで、ほんとうの年齢を書くと、そのうそがバレるからだ、という解釈だろう。もうおわかりかもしれない。実際は天武の方が年上だったのである。この天武が天智より年上というのは、このうえもなく重大な事実である。なぜなら、正当な後継者であろうとなかろうと、天武のほうが年下なら、「年上」の天智が自然死するのを待って、それから乗っ取りにかかればいい。しかし、正当でもなく年下でもない、としたらどうか。ぐずぐずしてはいられないのである。


私の推理でいえば、ずばり天武は、日本における新羅勢力の筆頭者だったということだ。この時期、日本は天智=親百済・唐派と、天武=親新羅・反唐派とに分裂していたのである。このようななか、天智は死ぬ。「日本書紀」にいう「病死」ではない。暗殺である。


その他、「歌なき大歌人、猿丸太夫」「謎の美女、小野小町」「なぜ上杉謙信は天下をねらわなかったのか?」「信長の㊙経営戦略」など。


いいなあ…井沢元彦は!超オススメです。(・ω<)