「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『南沙織がいたころ』(永井良和)

南沙織がいたころ (朝日新書)

南沙織がいたころ (朝日新書)

メリークリスマス!今日はイブだね。(^^♪ 

私が高校フォークソング部の時に組んでいたデュオ名は「シンシア」。(^O^) もちろん命名のルーツは南沙織だ。そして吉田拓郎かまやつひろしの名曲「シンシア」だ。この曲は実在する歌手に捧げられた曲ということで話題になったよね。


その南沙織がデビューしてから40年。そしてこの本は南沙織オンリーにスポットライトを当てた本なのだ。アイドル第一号とよばれた彼女はなぜアイドルであることに違和感をもったのか? 出身地・沖縄とこの時代とのかかわりは?出生の秘密とは?引退の背景とは?南沙織の熱烈ファンである「サオリスト」の大学教授が、蒐集し続けた資料をもとに徹底分析。異色の大衆文化論。そのエッセンスを紹介しよう。


・この本を手にしていただきたいのは「サオリ」「沙織」という名前を持つ女性の皆さんです。「南沙織と同じですね」「南沙織からつけられた名前ですか」とたずねられたかもしれません。南沙織という女性がどれほど可憐だったとか、その歌声がどれほど素晴らしかったとか、どれほどおじさんたちの心を揺さぶったのか。その理由を知りたいと思いませんか?「アイドル第一号」と呼ばれる沙織さん自身は、アイドルでありたいと思っていなかったふしがあるのです。


南沙織さんは1954年(昭和29年)7月2日です。本名は内間明美です。デビュー当時、沙織さんは、鹿児島県奄美大島の出身で、フィリピン人の父親と日本人の母親のあいだに生まれた「ハーフ」だとされました。しばらくすいて沙織さんは沖縄の出身だとも言われるようになります。2000年初場のCDには、フィリピン人の実父がお母さんを残して帰国し、その後、お母さんと結婚した別のフィリピン人男性が育てのお父さんになった、説明されています。しかし2008年になって、沙織さん自身が「生みの親も日本人」と発言したのです。沙織さんは、自分が「沖縄」を背負うべきかどうかで悩んでいました。


・お母さんの内間和江さんは、ある男性とのあいだに子どもをもうけます。それが沙織さんです。しかし男声は十九歳の母のもとを去ってしまいます。その後フィリピン人男性と知り合い、三人で暮らし、その後二人の女の子とひとりの男の子にめぐまれ一家は五人になりました。お父さんがフィリピン人だったので、沙織さんは洗礼名のシンシア・ポオリーと呼ばれました。英語の教育を受け指させようと決めたのは、お母さんでした。沖縄が日本に返還されることはないと信じていたので、子どもが将来、よい生活を勝ち取るためにはぜひとも英語教育が必要だと思ったそうです。


夏に咲く沙羅の花から「沙」の字を取り、七夕のころに誕生日を迎えることから織姫の「織」をとり、音の響きのよさを考え、「さおり」という芸名になりました。のちにたくさんの女の子が「沙織」と名付けられたのです。


・沙織さんが活躍する1970年代まで、「沙織」という名前はほとんどつかわれていませんでした。人名漢字追加表に「沙」の文字が追加されたのは沙織さんのデビューから五年後のことです。


「十七歳」「ともだち」「ひとねむり」「気がむけば電話して」「青春に恥じないように」「人恋しくて」「悲しい妖精」「春の予感」「約束」…名曲だらけだね。久しぶりに聞きたくなっちゃった!南沙織、いいなあ。