「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

『人は死なない ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』(矢作直樹)

タイトルがインパクトあるよね。(・。・) 臨床医・矢作直樹氏が医療の現場で見続けてきた生と死。容態が急変して亡くなる人もいれば、予想を超えて命をつなぐ人もいる。そして神は在るのか、霊について研究した人々はどう考えていたのか?神は在るか、魂魄は在るか。生命の不思議、宇宙の神秘、宗教の起源、非日常的現象。そして出された結論「人は死なない」そのエッセンスを紹介しよう。



生命とは我々が考えるほど単純なものではなく自然科学としての現代医学が生命や病気について解明できているのはわずかな部分でしかない。患者さんやご家族からすれば、我々医師は生命ないしは体についてのプロフェッショナルとして期待されていることでしょう。しかし、我々医師が「あらゆる総合である存在としての生命」について知っていることは、実のところ本当にごく限られたものです。


・米国の統合医療の提唱者アンドルー・ワイルは、近代医学に欠けている全体を見るという立場で「人は心で治る」と力説しています。


・「宇宙の果て」、つまり「空間の限界」はあるのか。結論からいうと、あるのかないのかわかっていません、空間は無限に続いている可能性もあるし、相対性理論を援用して仮説を立てると有限で周期的ではある可能性もあるとされています。たとえで言えば、地球のような球体を真っ直ぐにどこまでも歩いていくと、最初の地点に戻ってくるということになります。つまり、果てはないということです。


・人の死に対して、一般的には「歳をとって、八十歳で死ぬ」というような言い方をしますが、それは「肉体には寿命があり、八十歳になって肉体は朽ちて無くなる」というほどの意味であり、それ以上でも以下でもありません。古代から日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世に行くと考えていました。そして、亡くなった人の冥福を祈る追善や供養を営々と続けてきました。盆には仏壇に精進料理を供え、お寺の迎え鐘を突いて精霊を迎え、精霊流しをして帰すといった先祖供養を行ってきました。昔の日本人はみな、直感的に「人の死後の存続」を信じていたのだと思います。


人の魂は肉体が消滅した後も存在すると考えれば、ずいぶんと心が安らかになるのではないでしょうか。現世で二度と会うことはできないという喪失感は、残されて現世を生きる者にとって確かに大きなものですが、大切な人と幽明の堺を異にするのは一時のこと、他界した人はどこかで自分を見守ってくれている、いつの日か再会できると考えれば、死別の悲しみの本質が変わってくるのではないでしょうか。


・ところで、霊魂は不滅である、つまり人は死なないとしたら、なぜ医療が必要なのでしょうか。そもそもこの世での人生の目的のひとつは、仕事、ボランティア、近所付き合い、家庭など形や場を問わず、自分のできる利他行為をしていくことだと私は考えています。また、私のように医療に従事する者は、現在自分ができる最善の医療に従事する者は、現在自分ができる最善の医療によって患者さんの寿命を全うする手伝いをすることだと思っています。


人は、今生を生きているうちは、生きることを懸命に考えなければなりません。なぜなら、我々は摂理によって創られた自然の一部であり、摂理によって生かされているからです。したがって。自分の体はまず自分自身で労り、よりよい状態を維持するように努力しなければなりません。あらゆる思索、創造する力、精神活動は、いうまでもなく体の状態と不可分です。寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で「人は死ぬ」が、霊魂は生き続ける、という意味で「人は死なない」。私は、そのように考えてます。


いいね。人は死なない。父も義父も祖父母も、若くして亡くなった友人も生きているんだね。(^J^)