「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『生まれてはならない子として』(宮里良子)

生まれてはならない子として

生まれてはならない子として

衝撃的な本だ。(@_@) 両親ともハンセン病患者であった著者がその苦しみの歴史を綴っている。進学、恋愛、失恋、結婚、姑に隠し続けた結婚生活、親戚との確執、名前を変えられていた秘密など、隔離収容された両親の苛酷な人生。国の政策や社会の偏見のなかで自らを隠して生きた苦難の日々…。

ご存知のようにハンセン病は、現代では完治する病気であるのだが、過去の日本のハンセン病政策の汚点として、過去に合った事実として知り、語り継がなければならない。事実に目をそむけてはならないと思う。その一部を紹介しよう。


第二次世界大戦後に、新しい憲法のもとで行われた「無らい県運動」によって私は両親と引き裂かれた。その実態は、官民一体となったハンセン病患者狩りであった。両親の入所はハンセン秒の治療が目的ではなかった。ハンセン病患者を永久に社会から追放するために、罪人よりも重い刑を科されたのだ。


・母は最初の入所の前に姉を出産していた。三歳の姉を実家に預けての入所だった、さぞかし後ろ髪引かれる思いだったに違いない。後にみた母の療養所のカルテには「逃走」の記録があった。県を越えての「逃走」がどうしてできたのか。母を「逃走」へと駆り立てたのは、わが子を思う母としての愛であった。


・(母がガンを発病して)夜になると呻く母を抱いて声をかけた。


「母ちゃん、眠っていいよ」 「母ちゃん、私を産んでよかったね」 「私が母ちゃんを守らなくて、だれが守るかね。私がずっと守るからね」 「若い時は父ちゃん、母ちゃんを恨んだりしてごめんね」 「母ちゃんのお乳で育った私がこんなに元気なのに、どうして他人はハンセン病が恐ろしい伝染病だと言って怖がるのだろうね」

母の冷たい手を頬に当てて幾度も話しかけた。しまいの方は涙で言葉にならなかった。でもこのとき、私にはどうしても口に出せなかった言葉がある。「母ちゃん、私を産んでくれてありがとう」と、私はそう思っていながらどうしても言えなかったのである。


…言葉にならない…。人として生きていくとは、親子の愛とは、いろいろと考えさせられる本だ。おすすめです。


ハンセン病  Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%97%85