- 作者: 早坂隆
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2010/07
- メディア: 単行本
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SAトレーナーブログ 小野塚:思い込みと勘違い!?
http://blog.livedoor.jp/samaster/archives/51730322.html
9月になって風も秋らしくなってきたよね。(^u^)プロ野球も大詰め。セ・パ共に接戦で目が離せない状態。
さて、久しぶりに野球本を紹介します。戦争中の野球に関しては、この話が有名だよね。
CINEMA〜感動の実話!…『ラストゲーム 最後の早慶戦』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20080809
同様に、昭和16年(1941年)7月、文部省から届けられたその通達には、第二十七回を迎えるはずの夏の甲子園大会が「開催中止」と決まった旨が記されていた。日中戦争が長引き、開戦か否かで日米交渉が緊迫する中で、文部省が下した決定であった。文部省体育局の指導により「昭和16年から向こう5年間は中止」と決まったのである。
ところが、主催者が大阪朝日新聞から文部省とその外郭団体である大日本学徒体育振興会に代わり、「国」による主催で再び甲子園への扉が開かれることになった。正式名称は、本来、名乗るべき「第二十八回大会」ではなく、「第一回全国中等学校体育大会野球大会」と銘打たれた。つまりこの大会は、全国中等学校野球連盟の公認する大会としては認められなかったのである。朝日新聞社の記録は今も「昭和16年〜20年戦争で中止」となっている。昭和17年の大会が「幻の甲子園」と呼ばれる所以である。
このことは野球ファンの私も知らなかった。約70年前の球児たちのアツい青春がここにあるのだ。
・戦時中に甲子園を目指して野球をすることは、今とは異なる類いの苦労が絶えなかった。練習に励む選手たちを見て、「この戦時下に野球などしやがって」といった峻烈な視線や、反撥の声も少なくなかった。あからさまに「敵性スポーツをやる国賊」と揶揄される場面もあった。
・この大会を通じて、「選手」は「選士」と呼ぶこととするというのが、主催者側の決定であった。さらに、主催者側の「選士注意事項」には、「打者は党首の投球をよけてはならない」とある。「突撃精神に反することはいけない」ということであった。さらに、選手交代も認められないとされた。「選手は最後まで死力を尽くして戦え」ということであった。このような規則はもちろん、従来の大会には存在しなかった「新ルール」である。
・この大会は主催者の異なる「別大会」扱いであったため、徳島商業の優勝記録は、大会の正史には記されていない。徳島県勢の初優勝は、昭和57年(1982年)の池田高校ということになっている。平安中学の富樫淳が一回戦の市岡中学戦で達成したノーヒットノーランも大会史に存在しない。この大会が「幻の甲子園」と言われる所以である。
・「幻の甲子園」に出場した選手たちの生年月日を調べてみると、当然ばらつきはあるものの、大正13年(1924年)生まれの方が少なくない。この大正13年という年は、甲子園球場が完成した年である。甲子園球場と同じ歳の彼らが、戦前戦中における最後の大会の出場選手となった。逆に言えば、彼らと共に、甲子園球場も学生野球を卒業し、戦禍に呑み込まれていったということになる。
やっぱり野球が出来るって平和な証拠だよね。戦争や紛争のない世界になればいいよね。おススメです。(^u^)