「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「幻の東京カッブス」(小川勝)

f:id:lp6ac4:20220214050423j:plain

ふっとしたときに消滅してしまった球団のことを思い出すことがある。阪急ブレーブス近鉄バファロー、もっと昔は東映フライヤーズ大毎オリオンズ高橋ユニオンズなどなど。ほとんどは吸収されたり、名前を変えて存続しているが、中でも幻の球団があったのだっ!(・∀・)
 
「投げたボールは返ってこなかった…。知られざる日本プロ野球史の謎に迫る。敗戦から日本のプロ野球が復活した時、加盟申請しながら却下された球団があった。「東京カッブス」―。なぜ「東京カッブス」は幻に終わったのか。球団創設に邁進した河野安通志とは、どんな人物だったのだろうか」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・これは「東京カッブス」という幻に終わったプロ球団の物語であると共に、日本プロ野球の真の創始者・河野安通志の物語でもある。東京カッブス」は、昭和20年の冬、焦土の東京で誕生した。そして、一般のファンには知られることなく、1試合もプレーしないまま、幻に終わった。
 
球団社長…河野安通志
球団代表…小泉癸南(きなん)
監督…竹内愛一
 
これが「東京カッブス」の骨格だった。選手には、昭和18年に解散した大和軍(元イーグルスの選手たちを、もう一度復帰させる予定だった。敗戦後、玉音放送からわずか8ヶ月後、昭和21年の4月27日には、8球団でリーグ戦が再開されている。東京カッブスは、この復興したプロ野球リーグに参加するはずだったしかし加盟は認められなかった。そして「加盟却下」の知らせを聞いて一ヶ月もたたない昭和21年1月12日、河野は脳溢血で帰らぬ人となった。
 
「日本プロ野球の父」を一人選ぶとすれば、それは河野以外にあり得ないと思うのだが、現実には正力松太郎が「プロ野球の父」ということになっている日本プロ野球史に関する書籍の大半は、真のパイオニア河野安通志を、あまりに軽視している。
 

f:id:lp6ac4:20220214050256j:plain

 
・投球の最初に両腕をふりかぶる「ワインドアップ」、また緩急をつけたピッチング」というのも、日本野球では河野が最初にやったと考えていいようだ。
 
日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」は、関東大震災内務省の横暴で、実質三年間(大正十二年)で挫折した。河野はなぜ、どういう目的で、大正のこの時期にプロ野球チームを作ろうとしたのだろうか?理由は二つ。一つは時代の趨勢である。大正九年1920年米大リーグではベーブ・ルースレッドソックスからヤンキースへ移籍、打者に専念し始め、いきなり54本塁打という驚異的な大リーグ新記録を打ち立てた年だった。(それまでは、その前年ルースの29本塁打ルースの大評判は日本の新聞や野球雑誌でも紹介され、米大リーグの感心が高まっていた。
 
そしてもうひとつ。大学野球の隆盛により、学生たちの堕落だった。講義には出ないで野球ばかりやっている選手が増え、スター選手は人気におぼれ、取り巻きに誘われて生活が乱れ、野球のレベルそのものが落ちていく。プロ野球を作らなければ、大学野球の堕落は、そのまま日本野球の衰退につながってしまう。それは耐え難いことだった。
 
・平和の時が来たんだ。きのうの敵は、きょうの友なんだ。
 
・チーム名は、“東京カッブス”というんだ。カッブというのは動物の子供のことなんだ。
 
・河野がもし、あと五年長生きしていればー「東京カッブス」は、昭和25年の2リーグ分裂の時、後楽園球場(現東京ドーム)を本拠地にしてパ・リーグに加盟できたはずである。後楽園球場の建設で、河野が果たした重大な役割を考えれば、これは極めて現実的な「もし」である。
 
・阪急球団代表・村上実「フェアな人が少ない中で、河野さんは違った。派閥の色のつかない、買収のきかない人でした。私は尊敬していますよ」
 
・鈴木龍二「潔癖すぎるくらい、潔癖な人だった」
 
・河野が、自らの潔癖さを武器に転化させるだけの「タフネス」を持っていたら、彼はもう少し、自分の理想に近づくことができたに違いない。時計の針を戻すことができるなら、河野にもう一度、チャンスを与えてやりたい。
 
河野にとっては、何かを残すことが勲章ではなかったのではないか。日本プロ野球の草創期を担いながら、彼の球団は残っていない。彼の名前を冠した賞もない。しかしこの、何も残っていない、という現実こそが、彼の勲章なのではないか。それは彼が、野球というスポーツそのものを、純粋に愛した証ではないかプロ野球界で、球団を残した創業者たちについて調べてみるといい。よりよい野球をやるために、球団を興した人物が、一人でもいただろうか?
 
・河野は、選手として日本を代表するレベルでプレーした経験を持ち、なおかつ、プロ野球の経営者に転身して、十七年もの間、実際に球団を経営した。高いレベルでプレーし、長期にわたってプロ野球を経営したのである。その意味において、河野は日本の野球史上、まさに唯一無二の人物だったといえる。
 
・長男の通の妹の優子が、十代のころ、「霊魂は不滅か?」という議論を父・安通志
に吹きかけた時、河野は、次のように答えて、軽くいなしたと言う。「後の世の人が思い出してくれれば、それが不滅ということさ」
 
「野球への愛情を超えた国家への献身」「巨人の復帰なしにプロ野球の復興はない」「食糧不足の中、六千人の観衆が集まる」「“カミソリ龍二にさえ予想できなかった巨人の猛反対」「市岡さんの了解なしに、誰も何もできなかった」「市岡にとって河野は“目の上のタンコブ”」など。

 

何ごともゼロからスタートした創成期の人の物語って感動するよね。野球ファン必読っ!オススメです。(・∀・)

 

f:id:lp6ac4:20220214050423j:plain