「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「須崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光」(森田創)


洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光

その昔、長嶋の引退も、王さんの756号も舞台は今は無き後楽園球場だったよね。東京ドームができてもう20年以上経つもんね。


さてこの本。「戦前は遊郭で賑わった洲崎にプロ野球専用の球場ができたのは、昭和11(1936)年のこと。沢村栄治ノーヒットノーランを演じ、伝統の巨人阪神戦がここではじまった。しかし、わずか1年後の昭和12年にできた後楽園球場にその場を奪われ球史から消えてゆく。2014年は、巨人が誕生してから80年、2015年は阪神がそれに続く。「悲劇の球場」の詳細を野球少年だった著者が丹念な調査のもと蘇らせる」そのエッセンスを紹介しよう。


・今でこそプロ野球選手は、子供たちの「将来なりたい職業」となったが、その昔はまともな職業に就くことのできない与太者集団として扱われていた。そんな世間の冷たい風を受けながら、創世記の選手たちは、恵まれない競技環境の中で、いつの日か大リーグと肩を並べることを夢見て懸命に白球を追った。


・今をさかのぼること80年近く前、木造でオンボロの須崎球場で、誰も見向きもしなかったプロ野球に注目を集めようと奮闘した先駆者たちがいたからこそ、今日のプロ野球や日本のプロスポーツが存在するのである。プロ野球を愛そうというのなら、彼らの苦労と栄光、そして悲劇を知っておくべきだと思うのは、私の身びいきだろうか。


・80年近く前、ここ(東陽町)には「須崎球場」があった。それは、プロ野球リーグ戦がはじまった昭和11(1936)年に完成した、プロ野球専用球場だった。木造バラックのお粗末な球場ではあったが、沢村栄治、ビクトル・スタルヒン水原茂三原脩、景浦将、若林忠志、バッキー・ハリスといった創世記の猛者が躍動し、音を立てて軋むスタンドを埋めた下町のファンが、一枚5銭の貸座布団を放り投げ、芝居小屋を思わせる威勢のいい掛け声を飛ばした。戦争の足音が近づきつつも、好景気や東京五輪決定による時代の活気が球場内に充満していた。


・洲崎球場がプロ野球の舞台とした活躍したのは、昭和11年11月から昭和13年6月までのわずか1年7ヶ月。その短期間に「巨人の初優勝と沢村の3連投」「太平洋に打ち込んだ景浦のホームラン」「巨人・阪神伝統の一戦など、今も語り継がれる多くの名勝負が須崎球場から生まれた。先行き不透明な時代の中で、成功が危ぶまれたプロ野球人気の着火点となった球界の聖地である。だが今、この場所を歩く何人がそのことを知っているだろうか。


・球史に輝かしい足跡を残した須崎球場は、球場は、球場の仕様、規模、収容人数、解体時期など、あらゆることが謎に包まれた球場としてプロ野球史から長年放置されてきた。その謎を解明したいと思ったのが、この本を書くきっかけであった。


創世記のプロ野球選手は、どんな想いで白球を追ったのか。職業野球と蔑まれ、周囲の反対を押し切ってプロ野球入りした彼らは戦争によって野球人生が絶たれることを予期していた。どうせ兵隊に取られるなら、好きなことをやりたい。悲壮な覚悟を持って白球を追った彼にとって、束の間の晴れ舞台であったはずだ。


「沢村笑ってくれ!」と隣の巨人ファンが叫んだ。「沢村のノーヒットノーランの瞬間、何百枚と座布団が舞った」80年近い歳月を超えて、須崎球場の往時の姿を甦らせることができたら、それは懸命にプレーした選手たちのはるかな情熱の証である。


「怪人ジミー・ボンナ」は、知らなかったなあ!何事も創業期、創世記の物語って心を打つよね。野球ファン必読。オススメです。(╹◡╹)



洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光