「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜今年最高の本!…『二宮金次郎の一生』(三戸岡道夫)

今年ハマっているのが二宮金次郎こと尊徳先生。(^v^)知れば知るほどその偉大さが分かる。


MUSEUM〜小田原の偉人…『尊徳記念館』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20090817


この本がもっとも史実に忠実だということで読みました。530ページという大作ながら一気に読んだ。スゴイ!文句なしに今年一番の本だ!

幼い頃の親孝行で勤勉なイメージよりも、大人になってからの農村指導者、実業家、商人、名藩主にまさるとも劣らぬ政治家、静かなる革命家思想家、道徳家という枠に縛られないのが尊徳先生の魅力だ。ちょっと長くなるけどそのエッセンスを紹介しよう。今年ナンバーワンだからいいよね。(^−^)


・金次郎が自分の仕事の中から得た『物を他人から借りるコツ』

14歳のころ、家に一丁しかない鍬がこわれてしまったので隣家へ借りに行った。しかし、隣家でもちょうど農作業の最中だった。そこで、手伝うことによって、畑仕事は早め終わり、感謝されながら予定していたよりも早めに鍬を借りることが出来た。


・金次郎は、勉強好きであった。薪を背負って毎日、毎日長い道を往復するだけでは時間もったいない。そこで『大学』という書物を懐に入れて、生き帰りに本を読んだのである。しかし当時、百姓のせがれ、それも貧困のどん底にある百姓が読書をするなど異例のことだった。「百姓の分際にあるまじき変な人」「少し頭がおかしいのではないか」「キ印(気違い)の金さん」などとよばれたりしていた。


・植え残りの稲が捨てられていたのを、自分の荒れた田圃植えていたら、秋には一俵ほどの籾の収穫になった。「これこそ大地の恵みだ。小さいことでも、積み重ねれば大きいものになる。およそ小人の常として、大きいことを積んで大となることを知らないからだである。小さいことを怠るので、結局大きいことを成し遂げられない。それは小を積んで大となることを、知らないからである。たとえば、百万石の米といっても、米粒が大きいわけではなく、小さな米粒が沢山集まって百万石となるのである。千里の道も一歩ずつ歩いて行き着く。この道理をよくわきまえて、小さいことを勤めていけば、大きいことは必ず出来上がる。小さいことをいい加減にしては大きいことは決して出来ない」という「積少為大」の思想を説いただけでなく、生涯にわたって自ら実行したところに金次郎の偉大さがある。


・18歳のとき、奉公先の岡部伊助のところでは、学者を呼んで父子ともども講義を受けていた。金次郎は、襖の外でこれを聞かせてもらうのを楽しみにしていた、ある時、学者が帰った後、岡部の子供が講義の復習をしていたが、ある箇所、説明を聞き漏らして意味不明のところがあった。それを金次郎が自信をもって解説をして、岡部親子をびっくりさせた。また次回の講義の内容も解説して見せた。「お前は、どうして講義も聞かないうちから、そのように理解できるのか?」と金次郎は、「世の中の人たちは書物を読むとき、まず文章を読んでから、その後で内容を理解しようとします。しかしわたしは、まず最初に、天地大自然の中にある道理をよく考え、しかる後に、読んだ書物の内容が天地大自然のどの道理に当たるのであろうかと考えると、おのずと見当がつきます」と答えた。


・金次郎の変わっているところは、お金が一貫文になると、生活困窮者などの恵んでやったりすることだ。子守りをして得た金で、惜しげなく松の苗を買って酒匂川の堤防に植えたり、旅の僧が観音経を読むのを聞いて感激し、さらにもう一度これを所望して僧に二百文を与えるとか、個人の殻を破って社会的な行動をしようとする。この特性が、推譲(すいじょう)=世の中のために尽くす、思想に発展していく。


・金次郎は、自家の農業に精を出していたが、少し余裕が出来ると、現金収入を得るために、すぐ他の仕事に手を出している。日雇いの仕事、子守りをして駄賃をもらう、山で採った薪を小田原で売って金に得たり。 すなわち百姓でありながら現金収入の関心が非常に高く、かつ現金を得る方法が非常に巧みだった


・田畑を増やす方法は、荒地を開発する方法と、田畑を買う方法と二通りある。田畑を買うやり方は、手っ取り早いが、金がかかる。荒地の開発は手間と時間がかかるが、金がかからない。また、荒地を開発した田圃からの米には二、三年年貢がかからないので、まるまる自分の収入になる。そしてある無税の期限が切れて、年貢を納めなくてはならなくなると、その田圃は小作に出して、他人に耕させた。つまり何もしなくて一定の収穫が入ってくる。これは金を貸すのと同じである。これほどいい仕事はない。 このように、金次郎は単なる田畑を持った百姓ではなく、同時に労務者であり、商人であり、勤め人であり、金融業者という多方面に活躍した実業家と評価すべきであろう。これを二百年も前の文化文政時代に金次郎がやっていたということは、驚き以外の何者でもない。


・金次郎は貯えたお金で、様々な人々にお金を貸すようになるにつれて、人々は節約したお金次郎に預けるようになり、借りる人間も増え、自分の金と他人の金とが混ざり合い、複雑になり、個人の能力と個人の財力でやる限界がきた。そこで考え出されたのが五常講貸金」という金融システムを作った。五常とは仁、義、礼、智、信、の五つの徳であり、儒教が定めたもの。そして、この五つの徳を守ることのできる人だけが、基金を借りることが出来る、いわゆる、人間の信頼関係を基にした、回収不能がない金融制度であり、物を担保に金を貸すのではなく、人の心を担保に金を貸すのである。そしてこの貸出基金に、「聖人御伝授の金」という名前をつけ、あえて利息は取らなかった。


仁=金の余裕のある人がない人へ、金を貸すこと。
義=借りた人は約束を守ってまちがいなく返済すること。
礼=借りた人は、貸してもらったことに感謝すること。
智=金を借りたら、どうしたらはやく返済できるか努力工夫すること。
信=金の賃借には、確実に約束を守ること。


・奉公先の小田原藩主の家老・服部十郎兵衛は財政再建を一介の百姓である金次郎に頼んだ。始めは断ったが、再三再四の依頼でついに承諾した。それは、相手を焦らすためでも、駆け引きでもない。引き受けたからには絶対成功させなければならない。成功させるには成功する条件をととのえてからスタートしなければならない。服部家の財政再建は非常に困難である。その困難を乗り越えるには、非常なる決意が必要である。財政再建が始まれば、すさまじいほどの節倹を、服部家の当主も、家族も、仕える者たちも、強いられるであろう。その節倹に耐えられる決意か固まるまで時期を待ったのだ。困難な事業が失敗するのは、当人がその苦難に悲鳴をあげ、当初の決心がぐらつき、難事業を放棄してしまうからである。


・金次郎は服部十郎兵衛に言う。「食事は飯と汁だけにすること。着物は木綿のものに限ること・必要のないことはやらないこと。この三か条でございます。これをお守りくださいますか。もちろん服部様だけでなく、ご家族、使用人、すべてでございます」食べ物から衣類、そして薪や油にいたるまで、こと細かに計算し、もうこれ以上節約できないという、ぎりぎりの節約計画を立てた。


・桜町領に着くと、農家を一軒一軒たずねてその働きぶりや貧富を調べ、田畑に出かけては、その地味や作物の出来具合を調べ、村人が勤勉か怠惰であるかを観察し、田畑への水利の状況、荒廃の程度やその原因、肥えた田畑と痩せた田畑の分布状況を見きわめ、また昔や現在の風俗、生活の程度までもよく調査した。それも一回だけではなく、栢山村、桜町領、江戸の間を何回も何回も往復した
そして過去の貢租の実績から計算して、今後の年貢のあり方を割り出した。
このように、金次郎が時間をかけて過去のことまで徹底的に精細に調べ上げたのは、再建策というものは単に頭の中で考えたものでは駄目で、実際の現地調査の上に立った現実的なものでなくては成功しないという現場主義と、その計画を、大久保忠真をはじめとする大久保家、宇津家の者に理解させるには、これだけ綿密な調査の上に成り立った計画だから間違いないと、計画に信憑性と確信性を与えるためだった。

以後、金次郎は幕末に至るまで、多くの財政再建策を行うのであるが、その成功の秘訣はこの綿密な事前調査にあった。


『分度(限度の設定)の決定』と『権限の一元的掌握』の条件が整わなければ、いかなる復興依頼にも応じなかった。この二大条件を確約させるのが、金次郎の成功の秘訣だった。


・金次郎の仕事は、徳をもって徳に報いる『報徳』と呼ばれた。宇宙間すべてのものに徳があるとし、その徳を引き出す、顕現するのが人間であり、その徳を引き出す行為を『報いる』としている。後世では、『報徳とは、神徳(天地自然のめぐみ)、公徳(社会の恩恵)、父母祖先の徳(肉親のおかげ)に報ゆるに、わが徳行(報恩、感謝、積善)をもってする実践の道』と定義されて、世に普及していくのであった。


報徳仕法は、よい者をほめ、よくない者に、これをならわせるやり方を主としている。善人をほめれば、不善ののものもこれにならったよくなるのだ。論語にも、『直きを挙げてまがれる者を措くときは、まがれる者をして直からしむ』とある。(曲がった人を罰するよりも、正直な人間を抜擢し、曲がった人間はそのままにしておけば、やがて曲がった人間も正直な人間を見習って正直者になる)
一つの村を復興するにも、この考え方が必要である。水は高いところから、低いところへ流れていくように、物事はすべて善を先にするほうがいいのである。


・金次郎は成長すると、小田原藩の家老の服部家へ仕えて財政再建をはかり、その功を認められて、桜町領の復興を行う。その後、烏山藩、谷田部・茂木の細川家、小田原藩、相馬藩などの復興、最後は日光神領の開発と、次々と、困窮した農村や藩財政の復興を行うが、その残した偉大な跡を眺めると、金次郎の、実業家、商人、破産管財人、政治家、革命家などの面が、鮮明に感じられる。その結果、金次郎は生涯に、関東を中心に、六百余ヵ村という村の復興を手がけ、何千町歩、何万町歩という田畑を開発したのである。


・金次郎が日光の地で死去したとき、金次郎所有の田畑は一坪もなく、また厖大な資金もすべて報徳金として蓄積されて、農村復興資金に投入され、私有財産としてはまったく残していなかった。すなわち、二宮金次郎は自分の全生涯を、自分のためでなく、農村のために捧げたのである。


スゴイ!尊徳先生!小田原の誇り!他の著作も読んでみよう!。間違いなく今年ナンバーワン!座右の書がひとつ増えました!(^◇^)