「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『無責任のすすめ』(ひろさちや)

無責任のすすめ (ソフトバンク新書)

無責任のすすめ (ソフトバンク新書)

宗教評論家のひろさちや氏。名前はよく聞くよね。(^。^)ナント500点を超える著作があるんだって。すごっ!
ペンネームのひろさちやは、ギリシャ語の「愛する=フィロ」と、サンスクリット語「真理=サティヤ」からとったものだそうだ。ヘエ〜!φ(..)メモメモ

この本は、氏の作品とは違って、「これだけはいわせてもらう!」と本音爆発!自民党支配、義務教育、いじめ、競争社会、日本型資本主義、宗教家の役割、働くということ…。日本を支配する無責任体質を痛烈に批判し、我々国民が取らされようとしている責任を、一体誰に返すべきかを問いかける「怒りの書」がこの本。(^^ゞ

まあ、その話よりも、私は、もっと内面の話が心に響いたんだよね。そのツボを紹介しよう。


・ウサギとカメの話

イランでは…カメが頭のいいカメで、自分とそっくりの弟を呼んできて、先にゴールさせておいてから競争をする。だから、ウサギがどんなに速く走っても、カメのほうが最初にゴールしていることになるから勝てないという話だそうだ。
イランでは競争は醜いもの。だから競争なんてしてはいけないという教訓を教えるために、「ウサギとカメ」の話を使っているのだ。


インドでは…「ウサギはノープロブレム、カメが悪い。カメはどうして『もしもし、ウサギさん、目を覚ましたらどうですか?』と一声かけてやるのが、友情じゃないですか。あのカメにはちっとも友情というものがない」
「あなたのいうのもわかるけど、これはゲームだから相手が寝ていても、起こさなくてもいいじゃないか?」
「それはわからないでしょう。ウサギはもしかしたら、病気で苦しんでいるのかもしれない。声をかけて起こしてみて、はじめて怠けて居眠りしているだけか、病気で苦しんでいるのかがわかる。それなのに、自分が勝つことだけに必死になって、わかりもしないのに、居眠りしているだけと決め込んで黙って通り過ぎるのですか?」


インドでは、今でも恋愛結婚は全体の5%程度だそうだ。見合い結婚が主流で、下手すると結婚式当日になって初めて対面するカップルもいるほどだ。日本人なら皆、「それでいいの?そんなのかわいそう」というだろう。でも本人たちは、「なんでかわいそうなのですか?私はこれでいいと思っています」と応える。「でも、気に入らない嫁さんだったらどうするの?」って聞いたら、「私には自分が気に入るか気に入らないかよりも、両親が私のために選んでくれたお嫁さんであるということのほうが大事なのです。私のように人生経験が浅い者が、この女性がいいとか悪いとかは判断できません。人生経験が豊富な両親の目で選んだ人のほうが、確かだと思いませんか?」
なるほどなと思った。それがインド人の家族観なんだ。両親を信頼して結論を出す。それも自己責任の範疇なんだね。

それに比べて日本人は、自分で選んでおきながら、うまくいかないからとすぐに離婚してしまう。自分で選んだのであれば最後まで責任を持てばいいのに、なかなか持とうとしない。下手すると、うまくいかないのも両親のせいにしたりする。なんであれ、自分の人生に関わることは、これはやっぱり自分で責任をもたなければいけない。自分に対して無責任、自分の家族に対して無責任、これだけはいけない。


永平寺に昔、北野禅師という人がいた。その人は実家が福井県で、東京で修業をしていた。あるとき、母親が病気になったので、一時帰省して、看病をしたんだ。それで母親の病も癒え、いよいよ再び修行に出るときに母親にこう言ったそうだ。

「お母さん、もし私が破戒坊主になって堕落したら、二度とこの家の敷居はまたぎません。その覚悟で修業してきます」すると母親は、

「バカなことを言うんじゃない。おまえが立派な高僧になって世間の人がちやほやしてくれるようになったら、こんな家などさっさと忘れなさい。でも、もしお前が堕落して、人から後ろ指をさされるようになったとしたら、そのときこそ戻っておいで。玄関から入ってくるのが恥ずかしければ、窓ガラスを破ってでも帰っておいで。お母さんはういつでも待っているから」


といってくれたそうだ。その言葉は励みになって私を支えてくれたと、北野禅師はいっていた。子どもがどんなになってしまおうと、私の子どもなんだ。人生に失敗したとしても一緒に泣いてあげるいうのが、真の家族なんだね。


「この身体は私のものではない。仏様からお預かりしている身体なのだから、何もしないのが一番」と私は思っている。この預かりものという考え方は、あらゆる宗教で同じだ。たとえば、ユダヤ人の言語であるヘブライ語には、「have」、つまり「持つ」という動詞がないそうだ。所有という言葉がないのだ。なぜないのかと聞いたら、「すべてを所有しているのは神様だから」だという。万物の所有者は神様なんだね。


もうちょっと気楽に無責任でもいいんじゃないかね。(^−^)