「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

HUMAN〜松下幸之助に学ぶ危機脱出法(月刊BOSS)


あっという間に3が日が終わったね。今年もあと362日…!?(^^ゞ

さて、未曾有の経済不況の真っただ中、今年2009年はどう過ごしたらいいのか?そのヒントがこの雑誌・月刊BOSS 1月号の特集にみつけた!以前ここでも紹介した松下幸之助さんだ。


そのエッセンスを紹介しよう。


PHP研究所江口克彦が語る「危機のときでも実践した凡時徹底の原則」


・松下の経営人生の中にはいくつかの危機があった。しかし松下は危機に瀕していつものと違う、何か特別なこと、いつもと違うことをしたということはなかった
むしろ、ふだんからこころがけていることを丁寧に、忠実に行うことで、おのずから危機を克服できていたように見える。当たり前のことを当たり前に、着実に行うこと、つまり「雨が降れば傘をさす」ことで危機を乗り切ってきたと言えよう。
それは、「経営理念との照合 → 衆知の収集 → 熟考 → 結論 → 決断 → 実行 → 継続」である。


経営理念との照合―松下はこれを何よりも大事にしていた。松下の経営人生とは、みずから確立した経営の基本理念を守り抜き、貫き通した人生であった。
いついかなるときも、絶体絶命のときも、決してその基本理念を曲げることはなかった。だから成功した。だから最後まで経営者として失敗することなく、生涯を終えることができたのである。


・なぜ人々は宗教に集まるのか?それは使命感があるからだ。、宗教には人々の心の救済という使命がある。人々の魂を救おうとしている。それにひきかえ、商売の使命は何か?そうだ、商売の使命は物の面からの人間救済にある。いい物で安い物、人々に豊かな生活を約束する商品をつくり続け供給し続けることこそ、商売人の使命、産業人の使命だと悟った。松下幸之助の使命感は、まさに「悟り」であった。


判断に迷う場面では、まずは経営理念に照らし合わせて、考えて考えて考え抜く。そして自分なりの結論を出した。経営理念との照合のあとにおこなったのが、「衆知の収集」つまり、多くの人の意見を聞くことである。松下は、自分の考えだけでは事業の道筋を出さず、必ず多くの人の意見を聞いた。自分の結論をよい考えだと思っても、すぐに最終結論として断行することはなかった。多くの人の知恵を集め、組み合わせて、さらに新しいすぐれた知恵、独創的な知恵を生み出すことで成功する確率を高めたわけだ。


・あとは勇気をもって決断し、実行に移した。決断を下した後の松下の行動力は素早く、力強かった。そしてさらに大事なことは、それを継続することだった。「成功するまで続ければ必ず成功する」と松下は言った。当たり前のことだが、それを確実に行うことがいかに難しいか。松下には、その当たり前のことをきちんと実行する勇気と忍耐力があったのだ。


松下は私欲のない人だった。会社のために尽くす。業界のために尽くす。社会のためにつくす。国家のためにつくす。人類のために尽くす。その思いが何よりも先行する人だった。その意味で松下は「公の人」であったといえる。


・松下の危機は二つ、「創業時の危機」(大正6〜7年)と「昭和恐慌時の危機」(昭和4〜5年)である。
15歳で大阪電燈株式会社に勤め、23歳の時に独立したが、いかんせん先立つものがほとんどない。友人からどうにかこうにか借金をし、別の友人二人と義弟をあわせた4人でソケットの製造を始めたが煉物の調合法が分からず、難航を極めた。ようやく4か月たって完成したのはいいが、いっこうに売れない。さしあたり明日の生計をどうするかということから考えなければならない状態で友人二人が松下のもとを去っていった。ところが、年末に思いがけなく扇風機の碍盤1000枚を年内につくってくれという見本注文を受けることに成功し、年末にまとまった金が入り、松下電気器具製作所を創業するに至る。松下はこの危機に決して悲観的にならず、熱意と辛抱、それと運によって乗り切った。


松下はどんなときでも、最初に「できない」とは考えない人だった。まず「できる」と考えて取り組んだ。そしてあふれんばかりの熱意で事をなしとげていった。「きみ、会社の中でわしより賢い人間はなんぼでもおる。けど、仕事に対する熱意はわしのほうがずっと上やで。社員の人も相当なもんやけど、まだまだ負けへん」


松下は明らかに運が強い人だった。また運を大事にした人だった。「運がいい」は一過性だが、「運が強い」は継続性、連続性がある。考えてみれば、松下ほど悪い星の下に生まれた人も少ないだろう。父親がコメ相場に手を出し、せっかくの蓄財も一夜のうちに失ってしまう。そのために小学校も4年で中退。家族親兄弟の9人は松下が26歳までに全員亡くなってしまっている。本人も健康に恵まれてはいなかった。ところが松下は、このような境遇さえも運が良かったと捉えている。すべてのことを運がいいと捉えた上で、さらに怠りなく努力し続けたのである。言い換えれば努力し続けることによって、はじめて運が強い自分をつくりだしたと言えるのではないだろうか。


・そして「昭和恐慌時の危機」(昭和4〜5年)、世間同様に製品の売れ行きが急速に減退し、倉庫に入りきらないほどの在庫を抱え、病床に臥せっていた幸之助は、こう指示を出した。
「生産は即日半減する。しかし従業員は一人も解雇してはならぬ。その方法として、工場は半日勤務として生産を半減、従業員には日給の全額を支給して減収をしないようにする。その代わり店員は休日を廃して全力をあげストック品の販売に努力すること」
そしてなんと、全員の努力は見事、功を奏して、わずか二か月ほどの間に倉庫に充満していたストックを全部売りつくしてしまった。人間を大事にしていたから、安易に従業員を解雇したりせず、全員が共存共栄していく方策を考え出したのである。


…ん…、深い…。今の派遣社員の首切りなどを見て、天国の幸之助さんはどう感じているのだろうか…。
月刊BOSSってけっこう面白いよ!おススメ!(^◇^)

以前このブログで紹介したこの本もいいよ!


BOOK〜『松下幸之助はなぜ成功したのか 成功の法則(江口克彦
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20070614