今年亡くなった鉄腕・稲尾和久氏。私は当然、現役の頃は知らず、中日・落合博満監督が現役の時のロッテオリオンズの監督というイメージが強い。ロッテオリオンズって古いね〜。(>_<)
高卒で西鉄ライオンズに入団して1961年、7月11日にリーグ最速の20勝。完封勝利の翌日、救援でまた勝つ。8月に30勝。ダブルヘッダーでも一日2勝。そしてシーズン最多の42勝の日本記録。どひゃあ〜!\(◎o◎)/! 今では考えられないね〜。
今年、稲尾氏は亡くなったが追悼の意をこめてブログで紹介しよう。日経新聞に連載している『私の履歴書』をまとめたものだ。その中のツボとコツを紹介しよう。
・ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄との日本シリーズでの対決。
自分では決まったと思った球を打たれる。打たれたことのないコースを売れるはずのないフォームで打たれ。、味わったことのない恐怖を覚えた。そこで考え出したのが「ノーサインで投げること」。
相手が感性でくるならこちらも理屈はやめ感性で勝負するしかない。この感性勝負で長嶋を打ち取ったという。
・この全盛期に精神的にも一種の『悟り』に達したという。9回裏サヨナラのピンチで対戦打率が低い打者にも打たれる可能性がある。逆に対戦打率5割の打者に打たれるとも限らない。だから必要以上に恐れることはないし、あなどってもいけない。『勝負は五分と五分』の真理をわがものとした時、マウンドで一切動揺しなくなったのだとか。
・針の穴を通すとも言われたコントロールは、実はルーキー時代のバッティングピッチャーによって養われた。本人いわく、『手動式練習機』。ボールが続くと怒られ、ストライクばかりでもいけない。しかも当時の西鉄は大下、中西、豊田などのつわものばかり。『毎日三百球から四百球ほど投げただろうか。練習から帰ると宿舎の二階までの階段すら上れないほどへとへとになっていたが、曲者相手の百球はブルペンでの二百球にも相当する値打ちがあった。『打撃練習のマウンドが宝の山になった。』厳しい環境の中に身を置いてこそあの伝説の鉄腕が鍛えられたのだ。
稲尾氏の全盛期を見たかったな〜!合掌。