「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「若林忠志が見た夢 プロフェッショナルという思想」(内田雅也)

  


若林忠志が見た夢―プロフェッショナルという思想


野球が大好きなワタシ。過去の歴史や記録を繰っているとよく出てくるのが若林忠志プロ野球初年度から戦争をはさみ実働16年、528試合に登板し、237勝144敗。237勝は歴代11位。阪神在籍時の233勝は球団最多、防御率1点台(1.99)。42歳8カ月での完封は、45歳0カ月の山本昌(中日)があげるまで60年間破られなかった。すごい!(・o・)!


「選手による社会貢献の先駆け。日本プロ野球の原点はここにある。プロ野球草創期より阪神タイガース、そして連盟分裂後は毎日オリオンズで活躍した若林忠志。監督・選手として優秀な成績をあげ、戦後の青少年たちの善導のため野球を通じて尽力した。戦後の貧しい時代、少年少女の健全な育成や受刑者更生のため身銭を切って支援した若林の思想と行動を検証する著者渾身のドキュメント」そのエッセンスを紹介しよう。



プロ入り時の年齢は既に28歳で、戦後1947(昭和22)年にMVPを獲った時は39歳だった。勝利の多くは30歳代であげたものだ。あと十年、いや五年早くプロ野球が創設されていれば……もし戦争がなければ……とてつもない記録が生まれていただろう。


少年刑務所での「若林賞」。戦後の混乱期に少年刑務所を訪問した若林の思いを推し量った。「本当のプロフェッショナルなのでしょう。敗戦国として戦後復興の苦しい時だったでしょう。新しい日本の将来を担う子どもたちに夢を託していたのではないでしょうか。スター選手だったからこそ、その使命感もあったに違いない。一歩を踏み出した勇気と実行力に敬服します。いかに大きな人間だったかが分かります」


・タイガースに入った若林が日本球界に残したものに、「エースナンバー」がある。プロ野球でエースナンバーと言えば、真っ先に「18」となるが、これはタイガース入団時の若林が背負った番号から来ている。



・若林は「七色の変化球」を投げたと言われている。『速い直球と遅い直球。速いカーブと遅いカーブ、それにチェンジ・オブ・ベース(チェンジアップ)だ。あとはストライクとボールだよ』打者にボール球を振らせる投球術のうまさこそ若林の本領だった。若林は西鉄ヘッドコーチとして、エース稲尾和久を指導している。「ストライクゾーンの中での変化に比べれば、ストライクからボールになる変化は二倍にも三倍にもなる。ストライクゾーンだけで勝負しては打たれる確率が高くなる。ストライクからボールになる球を振らせることだ」稲尾は後に語っている。「七色の変化球」というのはストライクと見せかけたボール球を打たせることだった。


・戦前と戦後でともにMVPになった選手は川上哲治(巨人)と若林しかいない。


「ブロマイド商法」「新雑誌『ボールフレンド』の発刊」「二リーグ制への提唱」「タイガース子供の会の創設」など。


感動!野球ファン必読だね。もっともっと若林のことを知ってもらいたい。オススメです。(・∀・)


  


若林忠志が見た夢―プロフェッショナルという思想