「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ロケット・ササキ ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正」(大西康之)

この本の出だしから感動っ!!!ヒッピーの中にいたスティーブ・ジョブズ佐々木正が出会うシーン。これ、ホント!?フィクションじゃない!?こんな出会いってマンガの世界だよー!!!!まるでトーストを口に加えて遅刻しそうな高校生が、ぶつかった相手が転校生みたいな!(笑)

 

こんなスケールの大きい日本人が本当にいた!電子立国・日本の礎を築いたスーパー・サラリーマンの物語!敗戦から高度成長期にかけて、デジタル産業の黎明期に、常に世界の最先端を突っ走ったスーパー・サラリーマンがいた。シャープの技術トップとして、トランジスタからLSI、液晶パネルと当時のハイテクを導入して苛烈な「電卓戦争」を勝ち抜き、電子立国・日本の礎を築いた佐々木正インテル創業者が頼り、ジョブズが憧れ、孫正義を見出し、サムスンを救った「伝説の技術者」の痛快評伝」そのエッセンスを紹介しよう。 

 

・高校三年生の夏、正は台北帝国大学で植物の研究をしている教授のところへ実習に行き、ある研究テーマを与えられた。「接ぎ木」だった。熱帯で育った木同士、あるいは北方で育った木同士は容易に接ぐことができる。しかし熱帯で育った木と北方で育った木は容易にはつながらない。原因は樹液が流れる管の太さがまるで違うことがわかった。二つの異なる太さの管をどう接ぐか。正は、管の細いリンゴの枝を斜めに切って表面積を増やした。得意の数学で二つの管がぴったり合うように計算した。すると熱帯のマンゴーと北方のリンゴが見事に繋がり、リンゴのような計算した。「リンゴマンゴー」の実を結んだ。そうか、異質なものでも工夫をすれば接ぐごとができる。違うものを接げば、そこから新たな価値が生まれるのか」台湾というコスモポリスで育った正は、人種や民族や国境の壁にとらわれない感覚を身につけた。正自身も明治・大正という時代が生んだ「リンゴマンゴー」だった。
 
素直に頭を下げれば、たいていの人は教えてくれる。人間とは自分の知っていることを教えたい生き物である、教え合い学び合いながら進歩していくものである。わからなければ聞けばいい」佐々木には、無知を恥じるところがない。この大らかさが、知識を吸収していく時の武器になった。
 
「これからは人を殺す道具ではなく、人を幸せにする道具を作る。我々の技術はそのためにあるはずだ」
 
敵でも味方でも、使えるものはとことん使う。アメリカを貫いていたのは徹底した合理主義である。「使える」と判断した人材には厚遇を与えるそうすることで敵を味方に変えるのだ。
 
 
早川電機(シャープ)創業者の早川徳次皆さんに使ってもらったらいい。良い技術であれば、他者にも使ってもらい、お客さんにどんどん使って貰えばいい」それが信念だった。気っ風の良いいい徳次は業界で大いに男を上げた。
 
・「いいかい、君たち。わからなければ聞けばいい。持っていないなら借りればいい。逆に聞かれたら教えるべきだし、持っているものは与えるべきだ。人間、一人でできることなど高が知れている。技術の世界はみんなで共に創る『共創』が肝心だ」
 
・「戦闘機のスピードではササキには追いつけない。ロケット・ササキだ」
 
・佐々木はじっくり相手の話を聞き、それならあの人がよく知っている。電話をしておくから、会いに行きなさい」とアドバイスをした。人と人をつなげることが、新しい価値を生む。それが佐々木の信念だった。
 
・海外に出かけたり、海外から訪ねてきた要人に、佐々木は必ず贈り物をした。決して高価なものではなかったが、心の籠った贈り物だった。海外に送るクリスマスカードは5000枚を超え、そのすべてに直筆のメッセージを添えた。取締役20人で接待費が年間に2000万円とい質実剛健のシャープにあって、佐々木が使う交際費は群を抜いていた。社長の佐伯をはるかに上回る交際費を、佐伯はドクターだけはしゃあない」と目をつぶった。佐々木の人脈によって会社にもたらされる利益もまた桁違いだった
 
「日本人はイノベーションが苦手」そんなことはない。我々の先達は資金も設備も何もない状態で、ゼロからイチを生み出し、世界を驚かせてきたではないか。日本の電機産業には「ロケット・ササキ」がいたのである。会社はいつか消滅するし、国家が永遠に繁栄することもない。だが人類の進歩に終わりはない。
 
「殺人電波と秘密戦」は、我が母校、明治大学生田校舎登戸研究所だったころのこと。それもご縁を感じるなあ。この時期にこの本に出会えて良かった!超オススメです!(・∀・)

 

 

「羽生結弦は助走をしない 誰も書かなかったフィギュアの世界」(高山真)

日本のフィギュアスケーのレベルは高いよね。この間の羽生結弦くんと内村航平のコラボはスゴかったよねー!♪
 
フィギュアスケート界で人気実力ともにナンバーワンを誇る羽生結弦しかし羽生のスケーティングを語るとき、たいていの人は「美しい」「観客を引き込む」という曖昧な表現に終始するか、「何回ジャンプを跳べたか」という点をクローズアップするばかりだ。著者は、三八年間この競技を見続けてきた生粋のスケートファン。マニアックな視点で、「羽生の演技の何がどう素晴らしいか」を、表現、技術の両面から徹底的に分析する。羽生以外の現役男子・女子スケーターはもちろん、歴代スケーターたちの名プログラムもフィギュア愛炸裂で語りつくす」そのエッセンスを紹介しよう。


・38年間フィギュアスケートを見続けてきた人間として、羽生結弦の成長ぶりや、オリジナリティあふれる持ち味の磨き上げ方には、いつも驚かされてきました。ただ単に「オリンピックの金メダリストだから」とか「人気がものすごくあるから」などという理由だけだったら、私もこれほど羽生結弦の演技を楽しみにする人間にはなっていなかったと思います。私が羽生の演技にまず驚いたのは「その難しいジャンプに、何を組み合わせているか」ということでした。ジャンプの前後に「プラスアルファ」で加えているものが非常に多いのです。そしてその「プラスアルファ」は、年々進化する一方です。
 
・この本で羽生結弦という選手のすごみ、ひいてはフィギュアスケートというスポーツのすごみ打ち込んでいる全選手のすごみを伝えることができたら。オリンピックが終わった後も、さまざまな演技を見返すときの「ひとつの目安」としてお読みいただけたら…と思っています。
 
・テレビや新聞などでは、4回転ジャンプの「種類」と「跳ぶ数」そして、その成否が主に取りざたされています。もちろん、ジャンプの得点配分がいちばん高いのは確かですし、実際に顧客がいちばんに盛り上がるのも、ジャンプの部分でしょう。しかしう、現在はもちろん過去においても、ジャンプの種類と数が勝敗を決めた時代はない、と私は思っています。「ジャンプ以外の部分、トータルパッケージとして非常に優れた選手が勝つ」のです。ここ数年、「ジャンプの高難度化」と同じくらいはっきり目に見える形で「各選手のトータルパッケージの作り方」が明確になっているわけです。これが、ますます私をフィギュアスケートにのめり込ませている要因です。
 
 
 
・ひざと足首の柔軟性を最大限にいかしていること。
・厳密な体重移動を実現しているため、瞬間的に正しいエッジに乗っていること。そのため、乗った瞬間より、流れの中でスピードが速まること。
 
・「1歩」の距離が非常に長いこと
・8種類の組み合わせ、その踏み変えの複雑さや正確さが素晴らしく、それが曲の音符やリズムと見事に融合していること。
 
そして【チャンと羽生が対照的なのは、】
 
・「重厚感とスピードを、信じられないほど高い次元で両立させている」チャンに対して、「信じられないほどのスピードを出しつづ、本来あるはずの体重をまるで感じさせない。そんな『エアリー感』を実現させている」のが羽生。
 
だと私は思っています。
 
・友人のマツコ・デラックスとは、お互い伊藤みどりの熱烈な信奉者で、私たちは伊藤みどりを愛しすぎているあまり「みどり」と敬称をつけないファーストネームで呼んでいるのです。伊藤みどりは、まさに女子シングルの世界をガラリと変えてしまいました。先駆者であり、革命児であり、美しい競技者でした。伊藤みどりのことは、私は語っても語りきれません
 
・私にとっては伊藤みどりの時代から、スケーターは、「他者からの評価の壁を、自分自身の努力やここいちばんの集中力で破り、一段二段と高いところへ行く人たち」でした。その姿に、「自分ももうちょっとやんなきゃ。周りがどれだけなぐさめてくれたとしても、やるのは自分なんだから」という力をもらってきたわけです。そういう「気づき」とか「エネルギー」を与えてくれる存在が、私にとってのスケーターなのです

 

なーるほど。伊藤みどりってそんなにすごかったのかあ!!!知らなかった!!!あらためてフィギュアスケートを見る目が変わるよね。フィギュアファンの方も、そうでない方も一読をオススメします!♪(・∀・)

 

 

「最強知名度のつくり方 売上98%減からのV字逆転を実現した必勝術」(西村誠司)

「イモトのWi-Fi「にしたんクリニック」が同じ会社が経営していたとは!!!あのインパクトのあるCMを世に出したのがエクスコムグローバル株式会社代表の西村誠司さん。確かに知名度は最強だわ!!! 

 

インパクトこそ最大の武器だ!知名度を上げるのに資金もコネも必要はない。大切なのは、どうインパクトを与えることができるのかということ。極貧だった少年時代から自力で大学を卒業し、25歳で起業。挫折を味わいながらも、つかみ取った成功の礎となったもの、それはいかに知名度を上げるかということ。攻めやすいところからではなく、あえて難攻不落の大企業からアタックする。ビックネームを味方に付けることで、絶対有利なポジションを勝ち取る。常識を覆すその大体な手法こそが、最短で結果へと導いていく。マーケティングの天才」と呼ばれる西村氏がそのノウハウを余すことなく伝授」そのエッセンスを紹介しよう。


最大の武器となるのが「知名度」です。「品質は世界最高、人類初の革命的機能」なんていう商品やサービスがなかなかない中、物事の多くは、一にもににもいかに知名度を上げることができるかでその成否が左右されます。逆に言えば、知名度さえ上げれば、多くの物事はとりあえずいい方向へ転がり始めるのです。

 

・なぜ、もともと美容が主力で感染症検査のプロではなかった「にしたんクリニック」にそれができたのでしょうか。

 

「他にはなに最高級のPCR検査を提供したから?」「コロナだけでなく他の病気もわかる世界初の検査体制を確立したから??」「他にはない低料金でサービスを提供しから?」

 

一番の理由は1つ。知名度を最大限に活用したから。です。

 

「今の日本で、よく海外に出かけるイメージがあるのは誰だろう」と考えたときに、真っ先に思い浮かんだのは彼女でした。おそらく「イモトのWi-Fiと聞けば、「海外(旅行)」というキーワードにたどり着けるでしょう。

 

郷ひろみさんに歌唱していただくためのオリジナルソングにはPCR検査の「ピ」の字すら流れていません。

 

由布院温泉が全国区になったのは、ほかの温泉街になりそうした特徴を「知ってもらった」からでした。「知られているか」「知られていないか」だけ。今の時代は、この違いが途方もなく大きな差を生むのです。

 

知名度」は最強の「信用度」でもある。これは、私が25年間の経営経験から得た1つの結論です。

 

・あなたは、ここ1年の間に名刺交換をした中で「この人はインパクトがあったな」と覚えている人はどのくらいいますか。誰にも認識されていなければ、それは何もやっていないのと同じです。

 

「にしたんクリニック」「タンバリンダンス」篇の郷ひろみさんに注目してください。身につけている指輪が数字の5なのです。誰にも気づいてもらえなければ、私が自分で言えばいい。(笑)「実はですね……」

 

インパクトがある伝え方をする上で「心に残るワード。アイテム」「わかりやすさ」とともに重要なのが「ギャップ感」です。

 

「なるほど」よりも「えっ、なに?」の方が心に残ります。人は、全くわからないものには興味を持ちません。ですがこうした「わかるけど、わからない」ものには反応します。それが「えっ、なに?」です。

 

「にしたんクリニック」「にし」は西村の「にし」ですが、なぜ「たん」というと小さな子どもがよく使う「◯◯たん」から付けています。別に私がそう言われているわけでもありません。「西村クリニック」や「にしむらクリニック」では何のインパクトもありません。「にしたん」になると、一転、気になります。地名なのか、なにかの略語なのか。「えっ、なに?」と思ってしまうのです。

 

・みなさんも、自分にユニークな名前を付けて、仕事のときはビジネスネームを使うのはどうでしょうか。

 

「面接の数時間後にバイク便で届いたお礼状」「バイブルは『ケインとアベル』10歳の男の子が実践したまさかの戦略」「切手や郵便局の消印の工夫で、読まれるDMに変化する」「あえて第三者経由でアピールする、したたかなる手法(ウィンザー効果)(「配達員の方へ」)」「人間力=存在力。知られなければ存在していないも同じ」「コスト0円からのアピール術」など。

 

いいねえ。実践的だねえ。これは使えるわー!!!「酒場のギター弾き」よりももっとインパクトのある売り出し方ないかなー!オススメです!(・∀・)

 

 

「ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康」(小名木善行)

全作品読破を狙っているねずさんこと、小名木善行さんの本。 なぜ、この人は、こんなことまで知っているんだろう?誰から教わったんだろう?どんな本を読んできたんだろう?と感心している。(・∀・)

 

激動の戦国時代を勝ち残り、世界一の都市江戸を作り上げた家康。どのような人と出会い、人生を歩み、どのような経験を積んだのか。通説とは違う真の家康像を知れば、日本という国のすばらしさ、日本人のあるべき姿が見えてくる」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・家康が築いた江戸時代は、まさに道徳と平和の時代であったと言われています。モノよりも心を大切にする社会です。家康が意図して作った江戸日本が、ある意味、これからの日本の、そして世界が進む新しい時代の、いわばお手本になろうとしているのかもしれません。そこであらためて、家康という人物そのものというより、家康に影響を与えた人々と通じて、家康像を浮かび上がらせようとしています。なぜなら人は情報によって生きるものといえるからです。家康がどのような情報を持ち、その情報は新しい国造りに活かしてきたかを考えたいのです。
  
・この時代、出家と言えば、今生での死を意味しました。この世に生を受けて以来取得したすべて(名前も親兄弟も身分も財産も)捨てて、ただ仏門に帰するのです。つまり四歳の今川義元少年は死んで御仏の使いの僧侶となっていたのです。
 
・問題は、仏教や文字を伝えてもらったなどという「ありがたい話」ではなくて、その仏教が、我が国において、巨大な武装政治圧力団体になってしまっていたことにあります。仏教を否定するとか、そういう意味ではありません。鑑真など、素晴らしい高僧や、素晴らしい教えがあった一方で、世俗的な意味での仏教組織の肥大化と武装のことを申し上げています。仏教は、伝来からわずか42歳で、推古天皇によって仏教興隆の詔が発せられました。これが西暦594年のことです。つまり仏教は、たった42年で、天皇を動かすだけの政治力を持ってしまったのです。どうしてこのようなことができたのでしょうか。
 
・こうして千年続いた仏教界の武装勢力を、根本から叩き潰したのが、信長でした足利義教も含め、仏教渡来以来千年間、誰も仏教界の武装勢力の首に鈴をつけることができなかったのです。信長は、これをやったのです。
 
信長は天下をほぼ統一し、武装仏教勢力まで退治しましたけれど、そのために宗教的信仰心に裏付けられたゲリラに、こんどは内部から、常に命と政権転覆を狙われるようになったわけです。
 
戦国大名というのは、いわば軍閥ですから、より強大な軍事力で逆らう者たちを黙らさせることができます。しかし仏教勢力には、信仰があります。これはやっかいです。といって仏教徒を皆殺しにすることはできません。こうした中にあって、国内に根付いている武装仏教勢力だけの力を削ぐことで、国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先の自分ひとりに向けさせた上で、できるだけ派手に死ぬ。病で死ぬのではダメです。自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなければなりません。そしてそれができるのは、織田軍団のなかでは明智光秀ただひとりです。光秀は由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく朝廷や仏教界からも信任が厚い男です。
 
しかし光秀が主君を討てば、彼自身は逆賊の汚名を着せられます。ですから光秀も誰かに殺されなければなりません。そしてその者が天下人になる。これでえみんなが納得する。そして光秀を倒して天下を担う者は宗教以上に人々に夢と希望を与えることがdけいる人物でなければなりません。とすれば、百姓から身を起こした木下藤吉郎(秀吉
)が、まさに適任です。家柄なんてない、一介の百姓が、天下人になるのです。こんな痛快は夢物語は他にありません。何しろ当時の日本人の人口は95%以上が農民です。つまり秀吉は、どんな宗教に現世利益のご利益よりも、現実の利益を象徴する存在になり得るのです。
 
明智光秀は、秀吉にか負けて百姓の竹やりで殺されたということになっています。けれど本当にそうなのでしょうか。光秀ほどの剛の者が、そうそうたやすく素人に百姓に殺されたりするでしょうかむしろ殺されたということにしうて、身分と名前を捨て、どこかで僧侶にでもなって、後日の秀光の才覚を活かすことを考えた方が合理的です。実際、不思議なことに、天下の大逆人であるはずの光秀の子供たちは、細川家であったり、織田家に入ったりして、みんな生き残っています。ふつう逆臣の係累というのは、全員殺されるのが普通なのに、生き残っているのです。
 
・さらに不思議なことに、家康が江戸幕府を開いたとき、新たな国の枠組みを決めるのに、大いなる貢献をしたのが、天海僧正です。不思議なことに出自がまるでわかりません。歴史上、突然「僧正」として登場し、家康の側近となり、江戸幕府の慣例、しきたり、江戸幕府体制の仕組みを一から作り、日光東照宮のような文化施設まで造っているのです。
 
・さらに三代将軍家光「光」の字は、光秀の「光」二代将軍徳川秀忠「秀」は、光秀の「秀」から名前をもらったという説もあります。家光を育てた春日局は、光秀の重臣の娘ですが、彼女がはじめて天海僧正に会ったとき、春日局「お久しゅうござざいます」と言ったという話が遺されています。また天海僧正が作った日光東照宮の紋所は、なぜか家光の家紋である桔梗です。その日光には、なぜか明智平というところがあります。東照宮の陽明門は、なぜか明智の桔梗を身に着けた武士の像が置かれています。それが誰の像なのかは誰にもわからない。
 
もっというと大阪の岸和田にある本徳寺には光秀の位牌があるのだけれど、そこには光秀が慶長四(1599)年に寺を開いたと書き残されています。これは不思議なことです。光秀が死んだのは天正十(1582)年のこと。死んだはずの、その17年後に寺を建てたというのです。その本徳寺には、光秀の肖像画が残されています。その画には、「放下般舟三昧去」という文字があります。文字の意味は光秀が出家して僧になった」という意味です。
 
・もっというと、家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡佐渡)、と光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、籠(かご)網目のような六角形ができあがります。童謡の「かごめかごめ」は、「かごめ」が地理上の大きな籠目を指し、「カゴの中の鳥」はの「とり」は、明智一族発祥の「土岐(とき氏)は」とも聞こえます。家康と光秀を線でつないだ籠の目の中の土岐氏いついつでやる」です。そして「夜明けの晩」とは、日の出のときです。つまり「日の光」が射す日光です。その日光東照宮の屋根には「鶴と亀」の像があります。その鶴と亀」が「統べた」、つまり統治する…と、ここまでの意味をつなげると土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのか」となりうしろの正面だあれ」は、土岐から日光のほうを向いたときの地理上の後ろ側、つまり、大阪の岸和田で、そこには光秀の位牌と肖像画のある本徳寺があります。つまり、かごめかごめ」の童謡は、暗に天海僧正が光秀であることを歌った童謡であるというのです。これまたおもしろい説です。こうした筋書きをみると、本能寺の変は、光秀が企画して、信長が決裁し、秀吉に噛んで含めた大芝居であったのかもしれません。
 
 
「第一部 今川義元と家康」「第二部 信長と家康」「第三部 秀吉と家康」「家康の少年期を形成した今川、松平、織田」など。

 

ほんと、素晴らしい!歴史の教科書「強化」して「強化書」になってほしい。「日本のかっこよく!」オススメです!(・∀・)

 

 

「あの時、この歌」(由紀さおり・安田祥子)

その昔、由紀さおり『夜明けのスキャットを聴いたときは、ビックリしたなあ、もう!(古いか!)歌詞がないのに、圧倒的なメロディーと旋律!そして歌の上手さ。そのあとの『手紙』もすごかった。そしてお姉さんとの童謡のハーモニー!!!

 

さてこの本。「私たちの歌に涙を出して聴いてくださる人々、表情を和ませついていた杖を忘れて拍手してくださる人々がいる限り歌い続けたいと語る姉妹が25年間の歌手生活、童謡コンサート十周年の思い出等を綴る」そのエッセンスを紹介しよう。


・(祥子)私たちがいつも歌っている『赤とんぼ』でも、聴いていらっしゃる人が百人いれば、百の『赤とんぼ』がある、とはよく言われていたでしょう。1994年の大晦日紅白歌合戦ほど、それを実感したことはなかったわね。

 

(さおり)童謡には、百人いれば百の思いがある、ということね。終わった、終わったと楽屋に戻ったら母が待ちかまえていて『審査員の赤井英和さんが泣いていらしたわよ』って。家に帰ってからビデオを観て、あらためて、よかった、いい一年のしめくくりになったと、自分でも納得できたわね。

 

『夜明けのスキャットは、総売上200万枚という大ヒットでした。けれども最初は、レコードになる曲としてつくられたものではありませんでした。そもそもこの曲は、1968年の秋、TBSラジオ『夜のバラード』という番組に5つ目のテーマソングだったのです。

 

・母の最初の仕事が、私の芸名を考えることだったのですが、きものの専門家になろうとしていただけのことはあります。まず、結城の紬から「結城」が浮かびました。いずみたく先生にご相談すると、「章子さんは、色が白いから、雪がいい」と最初からおっしゃっていました。名前は、結城が冬なら、夏のきものは、紗(しゃ)や絽(ろ)。紗を織るのはどうかしらと「紗織」とできました。でも「結城紗織」では、あまりに重々しい。そこで「結城」が「由紀」になり、「さおり」とひらがなになりました。母は、なおも言いました。「きものの王者と言われる結城と、日本の母を代表する織物、紗からとった名前なんですよ。名前に恥じないようにがんばってちょうだいね」立派な芸名が、どこかで私を支えているようです。

 

・(いずみたく先生)「おそらく、これまで見たこともないようなお金が、印税として、あなたの手に入るでしょう。そのうちの半分は貯金していもいい。けれども、残りの半分は自分に投資しなさい。これからいい仕事をしていくために投資するのです

 

実際に、それまで見たことのないようなお金をもらいました。そして、先生の言いつけを守って、自分に投資しました。それは歌のレッスンはもちろんのこと、一流と言われる人々の芸術にふれたり、夢を与える歌手として、ステージの衣装や装置、共演のミュージシャンや裏方のスタッフの人たちにも十分なお金をかけることでした。

 

・ひばりさんがお亡くなりになったとき、さまざまな方が人柄と仕事をしのんでいましたが、中におひとり「自分が軍歌が好きなことを知って、ひばりさんが自分のためだけに軍歌を録音したテープを贈ってくださった」ということを話していらっしゃいました。そのとき、そうだ、この心なのだ、と私は思ったのです。歌を仕事にするものは、つねにより多くの人のために歌いたいと思います。けれども、ひとりのために歌うことがあってもいいと思うのです。

 

・童謡には三つの要素がある、とおっしゃったのは芥川賞作家であり、歌手でもある新井満さんです。「昔をなつかしむ」「最後はだれもいなくなり、ひとりぼっち」そして「夕暮れ」だそうです。『赤とんぼ』『里の秋』『砂山』『みかんの花咲く丘』『花嫁人形』などにも、こうした要素があるでしょう。愛する人と一緒にいても感じる、どうしようもないう孤独感。いえ、人を愛するからこその寂寥感、郷愁それは、愛や人の心の痛みをわかる人だけが感じるものなのでしょうが、日本の童謡には、そんな心がせつせつと歌われているのです。だから、子どもより、人生を知った大人の人たちの心を打つのだし、より多くの方々が聴いてくれるのだわ、と納得したのです。

 

そうそう!!!そのとおり!!!目の前の、たった一人のための歌がワタシの歌よ!それが「酒場のギター弾き」よー!由紀さおりと同じレベルで話しちゃダメだよね!(笑)オススメです!♪

 

 

「縄文文明 世界中の教科書から消された歴史の真実」(小名木善行)

いや〜!いいなあ!感動するなあ!日本人ってスゴイんだなあ〜!タイトルから想像できない内容の良さ。いままでの疑問が解けたようでスッキリするわー。小名木善行さん、スゴイ!!!
 
 
縄文時代、日本にはどんな文明があったのか―。縄文時代まで狩猟採集によって生活を行っていましたが、 弥生時代には稲作が始まり、暮らしが豊かになりました。ところがこれがまったくのデタラメだった!?」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・中世ヨーロッパにおける軍隊は基本的に「傭兵」です。一般の民衆は戦争の期間だけ戦地に駆り出されて、報酬に応じて働いていたわけです。そうなると当然、王国と兵の間に一体感は生まれにくくなります。日本兵が他国から恐れられたのは「国を守るためには、どこまでも戦う」という姿勢を貫いたからにほかなりません。
 
アメリカは日本を弱体化させるために、日本人であることの自覚や意識を、日本人から奪い取ろうとしていました。そんな背景のなか、「神代」に代わって「縄文時代」「弥生時代」といった区分が誕生することになります。
 
・昭和21年から24年にかけて、相沢忠洋(1926〜1989)というひとりの考古学者が、赤城山の麓の岩宿から石器を発見します。これがなんと現在から3万年前のものだとわかり、大騒ぎになります。しかも磨製石器」だったのです。日本では3万年前にすでに新石器時代が始まっていたということになります。
 
歴史を学ぶ、つまり、歴史学というのは、明確にわかっている事実と事実を論理的に結びつけながら、ストーリー化していくことをいいます。重要なのは再現性「同じことが繰り返された場合、同じ結果になるよね」というところまで、事実関係を合理的にストーリー化することこそ歴史学です。
 
・時代が違っても産んだ子どもを失った悲しみや、亡くしたわが子への思いは同じです。だからこそ親たちは、亡くなった子どもの足形を粘土版に残し、大切な思い出としたのです。それが私たちの祖先です。
 
土偶は「妊婦の身代わりだった」という説が一番納得できます。妻が妊娠したときは、同じ様にお腹の大きい女性を土偶として作り、その土偶を破壊することによって、身代わりとしてあの世へ逝ってもらう「身代わり人形」だったのではないか。身代わりの土偶をあまりにリアルに作ったら、神様が間違えて本物の母体をほうを連れて行ってしまうかもしれません。ですから顔をなくしたり、デフォルメしたりしたのではないか、と考えられます。
 
「夫婦」は、戦後から使われるようになった言葉で、戦前は「めおと・妻夫」という言葉を使っていました。「妻」が先、「夫」が後です。多くの男性が妻のことを「かみさん」と呼びますが、それは女性が家の神様だからです。子を産む力は、女性にしか備わっていない、まさに神様の力です。
 
中国が親、朝鮮が兄、日本は末っ子、という歴史認識はあくまで政治的な創作なのです。
 
すべての女性の人骨が、装飾品をつけています。古来、女性は花を編んで花輪を形作ったり、料理を作ったりと「柔らかいものを加工する」ことに長けています。一方でかたいものを加工するのは男性の役割です。固い貝殻から美しい装飾品を作っていたのは、男性だったのではないかと思います。
 
・年頃になった男の子は、好きな女の子ができると、自分で貝殻を必死に磨いて、美しい装飾品を作ったのではないでしょうか。女性にプロポーズしたのかもしれません。縄文時代の平均寿命は24〜25歳です。恋人たちの思いがまさに燃え上がっている時期に、永遠の別れを迎えることになります。「いつだって一緒」そんな思いから、愛する夫からもらった大切なリングなどの装飾品を身につけて、お棺に入った…だから、縄文時代の人骨を発掘すると、女性の人骨のには装飾品がいっぱいつけられているのではないでしょうか。
 
朝鮮半島に関しては、1万2000年前〜7000年前にかけての遺跡がまったく発見されていません。これが何を意味するかというと、朝鮮半島にはその5000年の期間、人間が住んでいた痕跡がないということです。私が思うに、当時の朝鮮半島にした人々が日を多用し、山をはげ山にしてしまったせいなのではないかと推測しています。
 
シュメール文明は7300年前で、ちょうどアカホヤ山の大噴火が起きて、縄文人が難民として移動してきたであろう時期と重なります「シュメール」は「住める」、さらにスメラミコトの「スメル」に聞こえます。さらに、シュメール人たちは自分たちのことを「ウミサンキタ」と呼んでいたそうです。「海さんから来た」。大噴火で大移動を余儀なくされただろう時期と、長江文明とシュメール文明が突然生まれた時期は、奇妙にも重なります。やはり、縄文人は2つの文明の誕生にかかわっていたのではないか、私はそんなダイナミックな思いを胸に抱くのです。
 
・日本には、男性が武器を持たず、女性たちが美しく着飾り、和をもって貴しとする人々の輪の文化がもともとあり、そ0うした大和人のDNAは、現代にまでしっかり受け継がれている。中国や朝鮮から伝播したのは、人殺しのための武器と、争いごと、強盗、性的暴行など、理解しがたいものばかりです。
 
・亀甲文字は記号の組み合わせになっているということです。これは「組み合わせる前の単体の記号が先に存在した」ということにほかなりません。ところが、単体の記号は中国では見つかっていません。
 
火焔型土器の模様は文字なのではないかという説です。神代文字と同じ。縄文人にとっては、一文字一文字に大切な意味がありますから、組み合わせるなんてとんでもない話だったことでしょう。
 
・中国で生まれた漢字は、もともと海洋民族だった縄文人が主に占いで使っていた神代文字を、組み合わせることで作られた可能性がある。つまり、漢字は中国から便利な文字として逆輸入されたのではないか…。そう唱えるのには、ほかにも理由があります。漢字を使う民族は結構いますが、漢字に「訓読み」を与えているのは日本人だけです。なぜか?漢字以前に、高度に発達した大和言葉という、言語の体系があったからにほかなりません。大和言葉に対応させるように、意味のもっとも近い漢字を引っ張ってきて、漢字に訓読みを与えるということを私たちの祖先はやってきました。その結果、「音読み」と「訓読み」のある漢字の豊かな使い方が実現したのです。
 
 
「イエ・ムラ・ハラ・クニ」「アカホヤの大噴火」「「漢字は中国で生まれた」は本当か?」「米は、世界初のクラウドファンディングなど。
 
これは文句なく日本人必読の書でしょう。超オススメです!(・∀・)

 

 

「薬に殺される日本人 〜医者が警告する効果のウソと薬害の真実〜」(内海聡、くらもとえいる)

2年前にコロナで入院したとき、ワクチンは打ってなかった。打つつもりもなかった。退院したあとで、「妻のために」3回打った。しかし、ワクチンの是非については、懐疑的だったが、この本を読んでしっくりきたわー!♪
 
世界に誇る健康保険制度を持つ日本。反面、世界一寝たきりの老人が多く、先進国で唯一がん死亡者が増え続けている国でもある。一体それはなぜなのか?数十年前にはそれほど見られなかった花粉症を始めとしたアレルギー症状が増え、発達障害を始めとした、子どもの病気も増えている。その理由は、日本がまさに世界一の薬消費大国だからだ」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
感染症とは、病原体(病気を起こす小さな生物)が体の中に侵入して、定着し、増殖することで症状が出る病気のことをいいます。病原体は大きさや構造によって寄生虫と病原微生物(真菌、細菌、ウイルスなど)に分類されます。病原体が体に侵入しても、症状が現れる場合と、現れない場合があり、感染症が発症するかどうかは“病原体の感染する力”と“病原体が侵入した体の抵抗力”とのバランスで決まります
 
・つまり、体の抵抗力を高めることで、感染症になることを防いだり、感染症になっても早く治すことができるのです。早く治すためには“体力の温存” “体を温める” “栄養と水分の補給” “部屋の温度(18〜20℃)と湿度(50〜60%)管理” “自分の精神を強化する”ことです。なので、インフルエンザや風邪にかかったら、まずは布団をかぶって寝るのが一番なのです。
 
「インフルエンザや風邪は薬では治りません。薬は病気を治しているのではなく、病気がもとで出ている症状をごまかしている」のです体の中に入った風邪薬は、病気の原因であるアデノウイルスを退治するのではなく、症状を和らげたり、麻痺させているだけのです。発熱、頭痛、鼻水、せき、腹痛などが和らいだことを“風邪が治った”と勘違いしているのです。
 
・“不快な症状をごまかしているだけであれば、問題ないのでは…”と考える人もいるでしょう。しかし、不快な症状をごまかしているだけでは、はすまないから、私は大いに問題ありとしているのです。薬は不快な症状をごまかすのと引き換えに“病気の治りを遅くする” “病気を悪化させる” “診察の妨げをする” “別の病気を引きおこす”といった弊害をおこしていますそして、薬がもたらす弊害は最悪の場合、死んでしまう、重い障害につながることもあるのです。
 
・医師は“そのまま放っておけば死んでしまう” “なにもしなければ重い後遺症が出てしまう”という、最悪の事態を回避する場合、救急医療の場合に薬を使うべきなのです。
 
ワクチンとは、一体なんなのか。私にいわせればそれは……支配」「統制」「病気づくり」です。
 
 
「日本人は薬について知らないことが多すぎる」「多くの人が信じているワクチンに関するゆがめられた情報」「ワクチンの添付文書に書かれていることを読んでみる」「っ急成長するワクチン市場と巨額な政治献金」「健康診断が医原病のきっかけになっている」など。
 
そうだよ、そうだよ、そのとおりだよ。そう思うよ!ワクチンよりも「ワクワクチンチン」の方がいいよね。(笑)考えさせられます。オススメです!