この本、いいわー。涙が出そうになるわー。日本人の原点ってここだったんだね。
「近代に染まる寸前の日本を科学者の目が見つめていた――。菓子屋の看板、人力車、屋敷の屋根瓦、和服の装い、そして、穏やかに暮らす人々。大森貝塚の発見で知られるモース、その鋭敏な眼差し惹きつけられたのは、明治最初期日本の何気ない日常の営みだった。東京大学教授として滞在する2年間にのこした、膨大なスケッチと日記には、卓越した科学者ならではの観察眼と、異文化を楽しむ喜びが満ちている」そのエッセンスを紹介しよう。
【1877年の日本 横浜と東京】
・我々が横浜に投錨(とうびょう)したときは、もう暗かった。ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ。これに乗客中の数名が、乗り移った。この船というのは、細長い、不細工な代物で、犢鼻褌(ふんどし)だけを身につけた三人の日本人ー小さな、背の低い人たちだが、おそろしく強く、重いトランクその他の荷物を赤裸の背中にのせて、やすやすと小舟におろしたーが。その側面から櫓をあやつるのであった。
・小舟はやっと岸に着いた。私は叫びたいくらい嬉しくなって、日本の海岸に飛び上がった。ホテルの窓から港内に集まった各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、戎克(じゃんく=中国特有の帆船の総称)や、その他海と船とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めた時、なんという歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。
・日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見慣れぬ開け放した店、店員たちの礼譲。いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々のたてる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香り。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光とくらいであった。
・婦人が5人いれば4人まで、6人いれば5人までが、必ず赤ン坊を背負っていることは誠に著しく目につく。赤ン坊が泣き叫ぶのを聞くことは滅多になく、又私は今までのこころ、お母さんが赤ン坊の対して癇癪を起こしているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤ン坊のために尽くす国はなく、また日本の赤ン坊ほどよい赤ン坊は世界中にないと確信する。
・この国の人々は頭に何もかぶらず、殊に男は頭のてっぺんを剃って、赫々たる太陽の下に出ながら、日射病がないというのは面白い事実である。この国の人々は飲食の習慣にて節度を守っている。
・この国に来た外国人が先ず気づくことの一つに、いろいろなことをやるのに日本人と我々とが逆であるという事実がある。鉋(かんな)を削るのに手前に引く。本は我々が最終のページとも称すべき所から始め、そして右上の隅から下に読む。我々の本の最後のページは日本人の本の第一頁である。糖果や生菓子が第一に出る。冷水を飲まず湯を飲む。馬を厩に入れるのに尻から先に入れる。
・日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵も閂(かんぬき)も戸紐もーいや、錠をかけるべき戸すらも無いことである。
何度も何度も読み返したい本。当たり前のことに、日本人としての矜持に感謝したいなあ。超オススメです。(・∀・)