いや〜感動したっ!!!いいなあ!すごいなあ!一気に読み進めてしまった!早くも今年のナンバーワンだろうなあ!!!いままでの正岡子規と夏目漱石のイメージがガチャン!と変わった。すぐに松山に飛びたくなった!(笑)
「ノボさん、ノボさん」「なんぞなもし?」べーすぼーるに熱中し、文芸に命をかけたノボさんは、人々に愛され、人々を愛してやまない希有な人。明治維新によって生まれ変わったこの国で、夢の中を全速力で走り続けた子規の、人間的魅力を余すところなく伝える傑作長編!小説家・伊集院静がデビュー前から温めてきた、正岡子規の青春。俳句、短歌、小説、随筆……日本の新たなる文芸は、子規と漱石の奇跡の出逢いから始まった! 偉大な二人の熱い友情を描いた感動作!」そのエッセンスを紹介しよう。
・子規の投球には、並外れたコントロールがあった。 よほどべーすぼーるの才能があると思われるかもしれないが、 才能以上に子規は修練していた。 このスポーツを初めて見た瞬間から自分の身体の芯のようなところ がカッ、と熱くなり、鳥肌が立った。以来、 勉学そっちのけで夢中になった。 靴屋の主人に頼んでボールをこしらえてもらい、 部屋の中でも暇さえあればボールを握っていた。
・一日一句のつもりが子規の頭の中からはどんどん句が出てくる。 十句、二十句はたちまちできてしまう。 これが子規のすべての創作における不思議なところである。 どうやらこれが俳句というものらしいという感触をつかむと、 そこからは直感で創作する。 生みの苦しみというものがまったくない。 おそるべき速さで創作していくすべての作品を記述し、 書き留めておく作業は丹念でった。驚くほどの数の俳句、短歌、 そしてそこに当時の身辺雑記から見物に出かけた浄瑠璃小屋の感想 、寄席で笑ったこと、浅草で食したものまでが書き留められる。
・子規には妙に人に好かれるところがあった。一度子規に逢い、 子規と語り合うと相手は必ず再度子規を訪ねてきた。 何人かの若者が子規を中心に集い、そこで過ごす。 子規の周りには人が集まってくる。 これは松山時代からそうであった。子規もまた人を、 友を好く気質なのであろう。 子規は相手が嫌な人間だと思うと口もきかないどころか、 その場からすたすたと離れてしまう。『余は交際を好む者なり…… すきな人ハ無暗にすきにて嫌ひな人ハ無暗にきらひなり』 これは後に生涯の友となる夏目漱石こと夏目金之助と同じ性分だっ た。
・なにかものにならなくてはならない…。 故郷を出て大東京に足を踏み入れた書生たちは誰もが、 そのなにものかを探して日々東京を歩き続けなくてはならなかった 。夢破れて去る者は大勢いたが、 大志を抱いて上京する若者もまた途絶えることはなかった。
・この当時、 日本人は働き盛りの大人が何かの折に血を吐くことがままあった。 百日咳、風邪を引いた時の喉の痛み、暴飲、 暴食などでも血を吐くこともあり、 少量の喀血にたいしては無頓着なところがあった。 子規も何度かあった。 ただこれまでの喀血は一度で終わったのだが、 鎌倉宮を訪ねた半日で二度喀血があったことに関しては敏感になっ ていた。
・松山の時代から、 子規は自分の生涯をともにできる女性を夢見ていた。 その女性のことを子規は“意中の人”と密かに呼んでいた。 子規にとって女性は特別な存在であった。
・「七草集」が七部の巻まで完成すれば、 これを世に問おうと考えている。俳句、短歌、 小説を単独で発表するものはいても、 これらすべてを一人の手で成した者はいない。 人々は驚くに違いない。この当時、“文芸” なる言葉も発想もまだなかった。
・ 子規の句会は他の句会のように創作した作品を師匠がただ評するだ けのものではなく、 それぞれの題目の句を幹事がひとつの紙に無記名で書き出し、 その句を皆で点数をつけて投票し、句の順位を決める。 だから皆真剣なのである。 この句会のやり方は江戸末期に町衆の間で行われたが、 当時としては画期的だった。
・「“子規”、シ、キ、と読む。時鳥(ほととぎす)のことじゃ。 あしはこの初夏から名前を正岡子規とした。五月の或る夜、 血を吐いた。 時鳥が血を吐くまで鳴いて自分のことを皆に知らしめるように、 あしも血を吐くがごとく何かをあらわしてやろうと決めた。 それで子規じゃ」
・子規は「俳書年表」と第して俳諧の歴史を研究しはじめた。同時に「日本人物過去帳」と題していつどんな俳人がいたかをまとめることにした。そうして「俳諧系統」と題し、俳人の系統を一枚の大紙面に罫線を使ってわかりやすく系譜としてまとめたものを作成しはじめた。江戸から明治に時代、国家体制が一変し、それまで武士の隠居した者や町場の商人衆たちのたちのサロン的雰囲気がひろがっていた俳句が時代の変遷で縮小され、その潮流は勢いを失っているためわずかに地方に残る各派の糸をたぐりよせれば案外と用意にはつかめる。
・おそらく明治のこの時期、子規ほおの直感力と能力を持ち合わせた人はいない。時代の中に埋もれ、町衆の遊びとしてかとらえられていなかった俳句を、今日、日本人の文芸のひとつに大きな基軸として成長させたのは、子規の、この一風変わった直感力と、素直に己が愛するものを認め、それをたかめようとする清廉なこころがあったからだろう。
・鳴くならば満月になけほとゝぎす(夏目金之助)
・柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
・有る程の菊抛げ入れよ棺の中 (大塚楠緒子(くすおこ)の訃報に接した漱石の追悼句)
・当時、編集という仕事はその名称さえないが子規のしていることは現代で言えば、“名編集人”そのものだった。なぜ、こうも編集に才能を発揮できたかを考えると、これは子規の図抜けた記憶力と丁寧(まめと言ってもいい)で執拗とも思われる記録癖である。
・漱石は、現代のわれわれがいうところの「孤独」というものを骨の髄から自覚した最初の日本人であるといってもいい。最高学府で秀才の誉れをほしいままにしても、国の代表として留学しても、結婚して子宝に恵まれても、漱石は孤独だった。そんな彼がほとんど唯一、自分の心を深く知る盟友として認めたのが、子規であった。漱石がロンドンに留学しているあいだに、子規は世を去る。手紙が届くのに一ヶ月以上かかる距離に隔てられた二人が書き送った言葉。
・手紙を読み、手紙を書き、それが終わると二人はじっと闇を見つめ、部屋に座し臥す。近代文学の雄ふたりは、何も灯りが見えない空間でじっと何かをみつめようとしていた。
・漱石は子規の没後、編集を継いだ高浜虚子から乞われ『吾輩は猫である』を『ホトゝギス』に書き、作家としてデビューした。その後の多作ぶりは誰もが知るが、その活躍の期間はわずか十年余りにすぎない。胃潰瘍で血を吐きながら次々と傑作を書きつづけ、『明暗』を完成させることなく亡くなっている。彼もまた血を吐きながら鳴きつづけるホトトギスだったといえるが、そのひたむきな作家人生は、ほかでもない正岡子規から受け継がれたものではないかと思える。今日われわれの前に聳えている豊饒(ほうじょう)な文学の森はまちがいなくその闇の苗床から芽生え育ったものなのである。