作新学院時代、法政大学時代は見ていないけど、どの球団が指名するか、が話題だったよね。そしてクラウンライターライオンズの指名と入団拒否、アメリカ留学、そしてあの!「空白の一日」と。小林繁とのトレードでジャイアンツに入団、初の20勝、小早川毅彦の一発で引退を決める、なんとも激動の野球人生だったね。でも江川、好きだなあ!(・∀・)
「人は「たかが野球」と言うかも知れない、だが僕にとっては「されど野球」だった――。かくも騒がれたあの「空白の一日」とは何だったのか。ユニークな父のこと、今も記憶に残るマウンドでの一球、そしてわが家族のこと……。不世出の投手江川卓が、その半生、短くも波瀾に満ちた九年のプロ野球生活を、華やかなスポットライトの届かなかった部分まで余すところなく語る」そのエッセンスを紹介しよう。
・昭和53年11月のドラフト、その日から、 僕の野球人生は一変した。というより、 人生そのものがそこで切れてしまった。騒然とした雰囲気の中で、 23歳の僕は自分が自分でないような感覚に襲われたし、 精神的にひどく追い詰められもした。
・しかし、いわば「逆境」にあった僕を支えたのは、 やはり野球だった。 素晴らしいプロの打者と勝負する一瞬の輝きだった。「 たかが野球」かもしれないが、僕には「されど野球」だった。 今にして思う。もし僕が、 投手として人間として自分を信じることができなかったら、 この9年間の野球生活を乗り切ることはできなかった。 この本の題名には、そんな僕の思いがこもっている。
・子どもの頃から憧れたプロ野球の世界から引退した今、 はじめて僕は、自分自身の言葉で本当の「江川卓」 を語ろうと思う。幼年時代のこと、「空白の一日」 をめぐる出来事、記憶に残る一球のこと、そして家族のことー。
▲ 江川が最も気に入っている写真
・僕は親父のことをパパと呼んでいた。 昭和30年代に自分のことを“パパ”と呼ばせていたわけだから、 親父はかなり“ハイカラ”だったことになるのだろう。 決まって朝食はパンとコーヒーだった。 コーヒーは自分で豆をひいて入れた本格は、パンは自家製だ。 鉱山技師一家がそんな生活をしていたのだ。
・親父は新しもの好きである。鉱山技師の給料で、 我が家には僕が物心ついたときからから白黒テレビがあったし、 冷蔵庫もあった。 当時としては高級な電化製品がそろっていたわけだ。旅行にも、 年に二回ずつ連れていってもらった。しかも「誰よりも早く」 というのが親父の大原則だった。 新幹線に乗ったのも学校で一番のり。
・「オレはなあ、卓。 お前がスターになったとき写真集を出そうと思ってなあ。 将来スターになる子が、 どこにも旅行していないっていうのはまずいだろうよ」 ということは、家計を切りつめてまで行った旅行は、 ただ写真を撮るためだったのか。
・なぜ外人に、痛いところでよく打たれたのか、 自分なりに分析できないことはない。僕は、 ガイジンコンプレックスをあまり感じない、 大学卒業後のアメリカ留学体験で、コンプレックスはなくなった。 だから、というよりむしろ逆に、外人選手には必ず、 勝負しにいってしまう。力対力で勝負にいってしまう。 特に若いときはそうだった。それが“外人病”の原因である。
江川にジャイアンツの監督を演ってほしかったなあ!野球ファン必読っ!オススメです。(・∀・)