「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「さよなら、プロレス 伝説の23人にレスラー、その引退の〈真実〉と最後の〈言葉〉」(瑞佐富郎)

プロレスは、ほとんど興味がないのだか、なぜかご縁があって、プロレス関係の本に出会うなあ!♪しかも人気レスラーの引退の背景とこのコトバ。響くなあ!♪なかでも印象に残ったエピソードを紹介しよう!♪
 
・引退の前日は、チェ・ゲバラが実際宿泊したホテルの部屋に泊まったという。プロレスラー、ディック東郷のエピソードである。この日だけは」と、2週間前から予約していた。
 
・引退の意味は、各プロレスラーによって、それぞれ違うと思う。病魔に侵され、涙ながらにリングから降りた冬木弘道生涯現役を貫き、死後に引退試合が設定され、残された本人のシューズだけがリング上で10カウントゴングを聞いたジャイアント馬場引退試合の相手に、自らが見出したスコット・ノートンを選んだマサ斎藤。試合後、嬉しいよ。あれだけ強くなって」としつつ、こうも言った。こうして今、喋ってられるし、水も飲める。ラッキーだったな」
 
 
佐々木健介北斗晶夫婦は、“日本一、地方のコインランドリーの場所に詳しい夫婦”でもある。それは、1980年代、共にプロレス界の新弟子として想像を絶する苦労をした証でもあった。試合巡業中の新弟子の仕事は、多忙そのもの。リングの設営や先輩たちの周囲の雑務やセコンドを務めるのはもちろん、試合終了近くになればタクシーの手配に、これまた先輩たちの物の持ち運びに、そうそう、リングの解体。中でも彼らを悩ませた仕事は、試合で着用されたコスチューム類の洗濯であった。現在のように、ホテル宿泊は多くなく、旅館では洗濯機が借りられない時代。それも、深夜まで稼働している店舗となる。見つからず、浴場での手洗いの後、手持ちのドライヤーで乾かしたり、深夜に一般家庭のチャイムを鳴らし、洗濯機を借りたことも。忙殺される若手にとって、コインランドリーからの光は、まさしく灯台さながらのそれだったに違いない。
 
元来、福岡県出身の柔道の特待生として、明治大学への推薦入学の話もあったが、高校3年生の時、偶然テレビで観たプロレスに心奪われ、そこからはプロ入りのためののトレーニング一直線。プッシュアップ、スクワットの類は、何千回レベル。正確な数字がわからないのは、“倒れるまでやっていたから”だそう。「結局、プロレスラーになるのに、どれくらい練習すれば良いのかよくわからなかったから」と笑う。
 
「プロレスが好きだからこそ、未練がない」
 
 
天龍源一郎は、人を気遣う。お世話になった店に鮭を贈るなどは序の口。よく語られる、“居酒屋にいた客、全員に奢った”という伝説は、本当も本当。というのは、特に天龍同盟で旋風を巻き起こしていた1980年代後半、地方にはコンビニもファミレスも少なかった。そうすると、必然、居酒屋に行くことになり、そこには試合を観終えたばかりのファンもいる。(俺たちの生活は、この人たちに支えられている!)と思い、そこで会計を持つのが天龍という人間だ
 
・家族旅行の思い出がない。珍しく、箱根の彫刻の森美術館に車で区と、天龍は「着いたか。じゃあ、お父さんは車で寝てるから、2人で行って来い」試合の疲れもあろうが、あんまりではないかというのは外野の意見。そもそも天龍が観光地に行けば、人が集まってきてしまうのを、家族もわかっているのだった。天龍は、50歳を超えるまで、コンビニにもファミレスにも行ったことがなかったという。まき代夫人「私は自分に、言い聞かせ続けてきました。お前が結婚したのは(ノン妙の)嶋田源一郎』じゃない。天龍源一郎なんだ』と……」
 
・引退してから4日間、夜中に飛び起きたという。思うことは(今日、どこで試合だっけ?)(練習、しなきゃ)その度に、あとで気づいたという。(あっ、俺、引退したんだ……)ようやく、途中で起きることなく眠れたのは、引退して5日目の夜からだった。「今は何もしないことが幸せ。今は時間に追われなくてもいい毎日が楽しいし贅沢だと感じています」
 
アントニオ猪木の引退のページは、やっぱり心に響くなあ!♪プロレスファンじゃなくても、人はいつか人生から退くことがあるからね。オススメです!(^u^)♪