「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「猪木と馬場」(斎藤文彦)

子どものころ、プロレスが盛んだった!だってジャイアント馬場を主人公にしたジャイアント台風』辻なおき高森朝雄梶原一騎)ってマンガがあったくらいだから。馬場さんが、元ジャイアンツの投手だっていうのもビックリしたし、新潟の三条出身ということも親近感が湧いた。その後、アントニオ猪木が台頭してきて、ジャンボ鶴田ザ・ファンクスブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャータイガーマスクなど数え切れないほどのレスラーが出てきた。その基礎をつくたのが、馬場と猪木だ。

 

さてこの本は、いいよお!「燃える闘魂”と“東洋の巨人”の終わりなき物語。昭和のあの頃、金曜夜8時に「男の子」はみんなテレビの前にいた--。アントニオ猪木ジャイアント馬場力道山門下で同日デビューし、やがて最強タッグ「BI砲」で頂点に上り詰めた。その後、独立してそれぞれの道を歩み、二人は仁義なき興行戦争へと突入していく。プロレスラーとしての闘いからプロデューサーとしての闘いへ。猪木と馬場のライバル物語を追うことは、もちろん日本のプロレス史を辿ることであるが、本書の内容はそれだけではない。プロレスの本質を理解するための視座を伝える一冊」そのエッセンスを紹介しよう。

 

ジャイアント馬場アントニオ猪木は、プロレスのヒーローであり、テレビのヒーローであり、テレビのヒーローであり、最強のタッグチームから袂(たもと)を分かち、それぞれが一国一城の主となって長い長い“天下盗り”の闘いを演じた宿命のライバルである。プロレスの宇宙では、いつもふたつの太陽が輝いていて、馬場さんには馬場さんのプロレス、猪木さんには、猪木さんのプロレスがあった。馬場さんのことが好きな人は馬場さんがいちばん好きで、猪木さんのことが好きな人は猪木さんがいちばん好きだった。同時に観ながら、馬場さんの生き方、猪木さんの生き方をリアルタイムで体感してきた。
 
・本書は、馬場さんと猪木さんの物語とその歴史をひも解きつつ、ふたりが歩んだ昭和から平成、“ぼく”とぼくと同世代の少年ファンたちが歩んだ昭和から平成をもういちどゆっくりたどっていく昭和から平成のプロレスについて論じることは、ぼくたちが生きてきた時代について綴ること。“ぼく”馬場さんと猪木さんから人生を学んだのである。
 

 
“プロレスの父”力道山は1963(昭和38)年12月に急逝。日本プロレス協会は、豊登芳の里長谷川淳三)、遠藤幸吉吉村道明の“四天王”による新体制で再スタートを切った。力道山の死後、プロレスの存続が危ぶまれたが、結果的にプロレスを救ったのはテレビだった。
 
日本プロレスの絶対的なエースは馬場で、タッグパートナーの猪木はその馬場を急追する“ナンバー2”。この絶妙なバランスが約5年間、つづいていくのだった。
 
・猪木が入門当時の“公式プロフィル”は、「1943年、ブラジル・サンパウロ出身の日系二世」。カタコトの日本語しか話せない日系二世という“設定”だったから、猪木は公の場で日本語を話すことを禁じられた。
 
・馬場は後年、力道山について殴られるどころか殴られそうになったこともなかった」と回想し、いっぽう、力道山から“あご”と呼ばれ、内弟子として力道山邸に住み込んで日常生活でも師匠の身のまわりの世話をしていた猪木が自分が出世したら絶対に他人をあだ名ー身体的な特徴ーで呼ぶまい」と心に誓ったのはこの時代だったという。
 
猪木完至からアントニオ猪木への突然の改名は、1962年11月の沖縄巡業中のことだった。豊登とアイディアで若手の上田祐司と林幸一にもそれぞれ上田馬之助、林牛之助というリングネームが与えられた。マディソン・スクエア・ガーデンの大スターか、アントニオ・ロッカにあやかり力道山が命したものとされるが、力道山自身は怪奇派イメージの“死神酋長アントニオ猪木を正式なリングネームとして名乗らせるつもりだったという。
 
・徳光さん「馬場さんは若いころ、片道切符でアメリカに渡り、西も東も回った。アメリカでの武者修行の時代に人と人とのつながり、結びつきを大切にすることで、人間関係、人としての地位、ポジションをつくっていったのではないか。人間力というんですか、それをプロレスに活かしていったのではないか。だから、馬場さんはアメリカのマーケットに圧倒的に強かった。プロレスラーとしてもプロモーターとしても広いアメリカを掌握していた」
 
「ずっと耐えて、耐えて、忍んで、力を温存して、攻撃しているほうが疲れてきたころを見計らって最後に逆転するという美学を持っていた」
 
・「力道山は寛ちゃんを技の魅せ方という点ではほんとうに才能がある』と評価していた。ショーとして魅せることのできるレスラーであると。力道山は、若かりしころの寛ちゃんが自分に似ていると考えたのでしょう。猪木さんは大したレスラーです」
 

 
猪木とアリの世紀の一戦から約50年という長い長い時間が経過してはっきりしたことは、この試合がまぎれもなく真剣勝負だったという事実である。猪木はこの“格闘技世界一決定戦”をなにがなんでも実現させなければならないものと考え、アリ陣営ーモハメド・アリ自身というよりもーいつでもやめることができるサムシング」ととらえていた。試合をおこなうには、まずルールを決めなければならない。試合の3日前、マスコミ向けに発表された“最終ルール”では、かんたんにいえば。アリ陣営から強硬な要求により、想定される限りのプロレス的な動きはルールによって封じ込められ。そしてこういったルールの詳細は、当日、会場で販売されたパンフレットには載っていなかったし、試合前にも場内アナウンスによる詳しいルール説明はなかった。またテレビ中継でも、公式ルールの解説はなかった。ようするに、ライブの観客も、テレビの視聴者、衛星中継も含めーーも、ルールがまるでわからない状態のまま試合を観ていたということだ
 
・世紀の一戦から38年、2014(平成26)年、この試合のノーカット版DVDが発売された。そこに映っていたのは、真剣勝負とはこうならざるをえないという真実の映像だった。
 
「才能があったのは猪木さんで、馬場さんは努力の人。耐えて、忍ぶ人。猪木さんが長嶋茂雄で、馬場さんは王貞治猪木さんが江川卓で、馬場さんは西本聖
 
 
「宿命のライバル」「青春のプロレス」「新日本プロレス全日本プロレス」「馬場のプロレス観と猪木のプロレス観」「格闘技世界一決定戦”猪木VSアリ」「馬場プロデューサーと猪木プロデューサー」「“昭和プロレス”の終えん」「23歳の猪木、新団体“東京プロレス”に電撃移籍」「力道山プロレスの集大成『ワールド大リーグ戦』」「徳光和夫さんが語ってくれた“馬場さん”」など。
 
 
懐かしい!あの時代がよみがえる!残念ながら、二人がタッグを組んでいたところは、見たことがなかったなあ。紙面であの時代がよみがえる。プロレスファンもファン以外も必読っ!オススメです!(・∀・)