「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「1971年の悪霊」(堀井憲一郎)

久しぶりに読みました、堀井憲一郎さんの本。1971年といえば、昭和46年、7歳、小学校に入学した年かあ!♪ 前年に新潟から小田原に引っ越した翌年かあ!♪

 

ネットを見たら、日清食品カップヌードル発売」「日本マクドナルドハンバーガー=レストランの1号店を銀座三越内に開店」「ボウリングブーム」「また逢う日まで尾崎紀世彦)/「よこはま・たそがれ」(五本ひろし)/わたしの城下町小柳ルミ子)/「おふくろさん」(森進一)/「さらば恋人」堺正章)/「水色の恋」天地真理)/「雨の御堂筋」欧陽菲菲)だねえ!♪

 

さて、この本。日本を覆い続ける”思念”の正体。昭和から平成、そして新しい時代を迎える日本、しかし現代の日本は1970年代に生まれた思念に覆われ続けている。日本に満ち満ちているやるせない空気の正体は何なのか。若者文化の分析に定評のある著者が、その在り様を丹念に掘り下げ、源流を探る。はじめに 白く冷たかった2009年の夏」そのエッセンスを紹介しよう。

 
「1971年の悪霊」というのは、ある思念を想定している。私が個人的に感じる「時を超えた思念」というようなものである。その時代を懐かしみたいわけではなく、そのころから40年を超えていまに続く「おもい」を探ってみたい、というのが狙いである。あのころの思念が、いまの地上を駆け巡っているのではないか、と感じることがあるからだ。
 
【1971年、岡林信康が消えた夏】
 
フォークソングが広く流行していた時代がある。若者が熱中していた。鋭く、みずみずしく、爽やかな自分たちの歌として、若者に強く支持されていた。まず、1960年代に盛り上がった。そのまま1970年代につながっていった。
 
1970年、中学に入るとと、学校での何かのイベントごとに、フォークソングが歌われた。先輩たちがギターを奏でて歌い、途中から一緒に歌おうと誘ってくれた。「風」「悲しくてやりきれない」「青年は荒野をめざす」「友よ」「若者たち」「遠い世界に」「戦争は知らない」「今日の日はさようなら」そういう歌である。フォークソング世界は突然、目の前に表現れたのだ。
 

 

13歳の私がもっとも好きだったのは、はしだのりひこ「風」である。志賀高原へスキー旅行に行ったとき、夜に食堂に集まって先輩たちがギターを弾き、みんなでフォークソングを歌った。日常から離れた雪の高原、窓の外には白樺が見えている。好きな女の子がいて、風景がロマンチックで、そこで切ないメロディの歌をみんなで歌う。私にとってのフォークソングは、そういうものである切なさに強く惹かれていた。
 
1971年になって戦争を知らない子供たち」「あの素晴しい愛をもう一度」が出て、やがて翼をくださいもよく歌うようになった。翌年に開催される札幌オリンピックのための歌「虹と雪のバラード」もレパートリーに入った。
 

 
そして岡林信康が登場する。岡林こそが、プロテスト・フォークソングの象徴であり、1968年から過激になっていく学生運動からも支持された歌手である。極論すれば、“反体制型フォークソングは彼一人に象徴されていると言っていいだろう。プロテストソングを身体の内から絞り出すように歌っていたのは1968年と1969年の両年だけである。1971年までは彼がフォークシンガーの代表だった。それがざっくりとした当時の風景である。やがて自分でレコードを買い出したころ、それは1972年になってからであるが、そのときすでに、岡林信康の姿はきれいに消えていた。あとかたもなかった。1971年を境として、フォークソングシーンは大きく変わったのだ。1971年よりあとは別のフォークソングが流行しはじめた。(吉田拓郎井上陽水がその代表とされている
 
岡林信康は、とつぜん消えた。遁走(とんそう)である。1969年の9月、岐阜でのライブのあと、突然失踪した。ちょっと下痢を治してきます」と言い残して消えた。およそ半年消え、1970年の3月に復帰する。岡林がなぜ遁走したのか。
 
商業主義がとても敵視されている時代だった。レコードを出すのはべつにいい。その内容によって評価する。体制に反対し、若者の気分を歌ってくれれば熱心に支持をする。しかし、たくさん売れるのは、認めない。テレビに出て歌うのも認めない。それは資本主義への加担であり、商業主義に走ったことになる。そうなった歌手は、若者のサイドから、搾取者サイドに寝返ったとみなしていい。そう考えていた。純粋だった。もっと大事なことを言えば、みんな貧乏だったのだ。小さな反抗から、社会を変えられると信じていた。
 
1971年夏を境に、たしかに何かが変わったのだ。プロテストソング」の時代から「ラブソング」の時代へと変わり始めた。反商業主義スタイルは、学生運動とともに衰退している。メジャー路線にのったフォークソングが受けていくようになった。もともと吉田拓郎が売れたのは恋の歌である。「結婚しようよ」「旅の宿」は、どちらも仲のいい男女の歌である。失恋歌ではないところが、ひとつの特徴である。フォークソングは闘う歌ではなく、身のまわりの歌になっていく。闘争時代は何となく終わってしまい、同棲時代が始まった。
 
「京都の高校で紛争のあった夏」「1971年、高橋和巳が死んだ5月」「1969年、「善のウッドストック」と「悪のオルタモント」」「1971年、「小さな恋のメロディ」に惹かれた初夏」「1973年、ローリングストーンズ幻の日本公演」「1968年、パリ五月革命の内実」「毛沢東文化大革命」を支持していたころ」「 左翼思想はどこでついていけなくなったか」など。
 
……いいなあ、感慨深いなあ。確かに、フォークの分岐点だっかもなあ。それはそれと、岡林は好きだけどねえ。高橋和巳、読んでみたいなあ。オススメです。(・∀・)