・哲学者、鶴見俊輔が『君たちはどう生きるか』について、
日本人の書いた哲学者として最も独創的なものの一つであろう。
と書いていた。すぐに読んだ。『君たちはどう生きるか』 が読まれているいま、鶴見哲学を補助線としながら、 そこに書かれいることを深めていくことができるのではないか、 と考えた。それが、本書を書きたいと思った動機だ。
・私の仕事について書く。「つらいことや悲しいことがあり、 自分を道端にころがっている小石のように感じるとき、 人は自分をどのようにして支えているのか」この問いを手に、 人と会い、話をきき、行動をともにし、短い文章を書いてきた。「 コラム・ノンフィクション」といわれている。
・(小説家の打海文三)「 先のことを考えると暗たんとした気持ちになりませんか」「 将来のことを考えては今日は生きられない。 昨日息子がかわいかったら今日もかわいい、 今日かわいければ明日もかわいいだろう。 そうやって息子が五十になったときもかわいいと思っているだろう 」何十年か先を思い描いて不安になるのではなく、 今日の喜びを明日への糧にしていくことが大事なのだと教わった。
・私が会うのはすぐ隣にいるような人たちだ。 一人ひとりがそれぞれの仕方で困難に立ち向かっている。 その話をきき、姿を見るとき、 ここに生きることそのものがあるという思いという思いが胸に満ち てくる。そのことを文章にし、本にしてきた。鶴見哲学の「 成長的な見方」そのものではないが、 それほど離れていないと私は思っている。
は「食うためのこと」とわりきり、余暇で自分の「やりたいこと」をやるしかない。しかし、一日のほとんどの時間を「食うためのこと」に使って良いのだろうか?
・ カードとカードを矢印でつないだものを文章にするとこうなった。 「私は、充実している日々を生きたい。 充実とは自分が打ち込めるものがあるということで、 それは私にとっては表現だ。表現を仕事にしたい、しかし、私には才能がない。表現したい理由のひとつに、 他人にほめられたいということがある。 だから逆に他人に認められないと簡単に傷つく。才能のない私は、 やりたいと食うためのことを一致させられない。 努力するしかない。将来を考えて現在を過ごしてる。そのために、 現在起こる出来事と向き合えてない」
・表現者として生きたい。しかし、才能がない。 それなのに表現することをあきらめきれずに苦しんでいる。〈 痛いな〉と思った。さらに模造紙を眺めていて、ふとこの〈痛さ〉 には普遍性があるのではないかと思った。「 他人よりも秀でたところのない砂粒のような存在だと自覚しなけれ ばならないとき、人はどう自分を支えるのか?」 これは私の問題だ。そしてたぶん多くの人に共通する問題だ。
・44歳のときに、私は自分を掘った。そして、 普遍的だと思える問いを手に入れた。この問いを手に、人と会い、 話をきき、そのことを文章にしてきた。とにかく、 私は自分を掘り、自分の問題を手に入れた。こんな仕方なら、 誰にでもできるのではないだろうか。コツがあるとしたら、 なるべく自分の嫌なところ、 痛いところをと向き合うということだ。 痛いところに普遍性はある。
・「どんなにつらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、 男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ。 考えてごらん、君がこんどやった失敗だって、 そういう覚悟が出来ていなかったからだろう? 一たん約束した以上、どんな事になっても、 それを守るという勇気が欠けていたからだろう?」
・三人の家庭は、 コペル君のようにいつも親しい空気に満たされているわけではない 。それではどうしたらコペル君は、 行動を起こせるようになるのだろうか。おそらく、 自分の生活の中にトゲトゲしい空気をつくり出し、 慣れれば良いのだ。そういう「生活術」を工夫する。たとえば、 三人を殴った上級生たちとつき会ってみるとか、 家を出てひとり暮らしをするとかだ。もっと良い「生活術」 があるかもしれない。
・僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。 だから誤りを犯すこともある。しかしー 僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だから、 誤りから立ち直ることも出来るのだ。
・「マチガイ主義」(プラグマティズムの哲学者チャールズ・ サンダース・パース)
人間はまっすぐ真理にちかづくことはできない。 ひどいマチガイからあまりひどくないマチガイに向かって進むこと により、少しずつマチガイを少なくすることができるだけで、 それが現実についての正しい思考だ。
「人間分子の関係、網目の法則」って深いよねー!。この年になってこの本に出会えてウレシイ。オススメです。(・∀・)