「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「言語が消滅する前に「人間らしさ」をいかに取り戻すか?」(國分功一郎・千葉雅也)

 

3月に読んだ、この本『中動態の世界 意志と責任の考古学』は、衝撃的だったなあ…。能動態と受動態だけじゃなくてその中間の「中動態」というのがあったなんて!!!

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それから哲学者の國分功一郎さんに興味を持って読んだのがこの本。この対談集もオモシロイよ〜!(・∀・)

 

「人間が言語に規定された存在であることは二〇世紀の哲学の前提だった。二一世紀に入って二〇年が過ぎたいま、コミュニケーションにおける言葉の価値は低下し、〈言語を使う存在〉という人間の定義も有効性を失いつつある。確かに人間は言語というくびきから解き放たれた。だが、それは「人間らしさ」の喪失ではなかろうか?――情動・ポピュリズムエビデンス中心主義の台頭、右・左ではない新たな分断。コロナ禍で加速した世界の根本変化について、いま最も注目される二人の哲学者が、深く自由に精緻に語り合う」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・(國分)僕等は「態」には能動態と受動態しかないと思っていて、どんなことでも「する」か「される」に振り分けられるんだと、ぼんやりと考えている。ところが、言語の歴史をよくよく調べてみると、能動態と中動態だった。つまり「する」か「される」かで行為や出来事とを分類してしまうけれども、かつてはそれとは違う仕方で分類していたということです。しかも日常の言葉がそういうものだった。そこが非常に面白いと思ったんです。
 
人間の責任を問うとき「これはおまえがやったんだろ」と言いますよね。「おまえがやらされた」のではなくて「おまえがやったんだろ」と言える場合に、その人に対して責任を問うことができる。ところが、その意志という概念を細かく分析していくと、非常によくわからないところがある。意志は意識と結びついている。ところが不思議なことに、意志は何ものともつながっていない。純粋な出発点だと見なされることがあるんですね。僕が千葉くんに「頼むから紅茶を頼んでくれよ」と言って、千葉くんが紅茶を頼んだとしたら、あそれは千葉くんの意志ではなく、僕にプッシュされたことになる。それを断ってエスプレッソを頼めば、その場合には、千葉くんが自分の意志でエスプレッソを頼めば、その場合には、千葉くんが自分の意志で頼んだと見なされるわけです。
 
・(千葉)僕は國分さんから頼まれたという、その前の経緯を切断している。つまり意志というのは切断ですよね。
 
・(國分)切断なんです。そう考えると、意志の概念には決定的な矛盾がある。「周囲」や「過去」と意識を通じてつながっているとみなされていると同時に、まわりから切断された純粋な出発点とも見なされている。意志は、このどうにもならない矛盾を抱えているんですね。
 
・(國分)依存症を抱える人は、自分の意志で能動的にアルコールや薬物に手を出したわけではありません。心に苦しいものを抱えていて、それが薬物依存・アルコール依存のきっかけになっている。ところが世の中では尋問する言語が当たり前だと思われているから「なぜ自分の意志でやめられないのだ。それはおまえの意志が弱いからだ」となる。僕は依存症からの問いかけは、ある意味で哲学への挑戦だと思ったんです。自分が好き好んで意志的に酒を飲んでいるのかそうでないのいか、薬をやっているのかやらされているのか。二項対決では説明できない。「やってしまっている」というような状態が、中動態の具体的で現代的な問題として出てくる。
 
・(國分)僕も千葉くんも大学で教えているので、いつも先生なんですよね。でも、僕は先生をやることに少し疲れていました。生徒になりたい、教わりたいという気持ちがあった。だからアテネ・フランセに行って、久しぶりに生徒として徹底的に教わる経験をして大きな満足がありました。先生をずっとやるのってなんか嫌でしょう。先生はやっぱり偉くなきゃいけないから、先生としての権威を維持するためにいろいろしなきゃいけないこともあるし(笑)生徒をやることの心地よさは大きかったですね。
 
教わることの快感って、ある種のマゾヒズムかもしれないですね。身を委ねる快感というか。純粋に学んでいるときって気持ちいいです。
 
・(國分)LINEのスタンプとか絵文字にはいろいろ考えるべき問題があります。言葉を使わないコミュニケーションでも十分だということです。ある種の情動の伝達だけをやっている。そして日常的なコミュニケーションはそれで十分だったことがわかった。メールを書くときも予測変換されたことをピッピッピッと選んでいるだけですよね。しかも、それで十分に文章になるし、事足りる。僕らはどんどん言葉を使わなくなってきている。だから言葉が人間を規定しているということの意味も想像できなくなっているかもしれない。
 
・(千葉)言葉がただの道具になってしまっているんですね。使えさえすればいいから、言葉自体が完全に透明な手段になっていて、そこに引っかかることがない。だから、絵文字に置き換えても構わないし、記号に置き換えてもかまわない。言葉が言葉であるという理由がない。要するにコミュニケーションが全面化している。これは逆説的な言い方だけど、言語というのはコミュニケーションのためだけにあるものじゃなかったんですよね。
 
・(千葉)小説、苦手なんです。人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、トラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるのであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから物語なんて必要ないわけです。すべての小説は愚かなんですよ。だから僕は小説を読む必要がないと思っているの。でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それは素晴らしい
 
なーるほど。φ(..)メモメモ そういう考え方もあるんだね。面白い、実にオモシロイ!(ガリレオ先生ふうに)。「言葉が消滅する前に」ってそういうことだったんだね。オススメです。(・∀・)