「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「若き実力者たち」(沢木耕太郎)

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若き実力者たち

若き実力者たち

 

 最近、ハマっているノンフィクションの巨星、沢木耕太郎氏。その記念すべきデビュー作がコレっ!!!


小沢征爾市川海老蔵(のち十二代目團十郎)、唐十郎山田洋次尾崎将司河野洋平秋田明大安達瞳子畑正憲黒田征太郎堀江謙一……。1970年前後に華々しく登場し、常に時代を騒がせ、リードし続けた12人の若きヒーローたち。彼らの多くは、今も輝きを失っていない。20代半ばだった著者が若き日の彼らの実像に迫り、新たな人物ノンフィクションを確立した画期的作品」中でも藤井聡太七段を彷彿させるこの章を紹介しよう。
 
「神童 天才 凡人 中原誠
 
「十で神童、十五で才子、二十過ぎては凡(ただ)の人」ーこれは、幼少で神童、天才と騒がれる者の大半が、成人していくに従って、その特異能力を失っていくことを、巧みに諷した諺である。中原はこの諺通りの道を歩まなかった。二十過ぎても依然として天才のままだった。だが、同時に「凡の人」であることも確かだった。人がいうほど特別な人間ではなく、平凡な若者のひとりだ、と同年齢のぼくには思えたのである。もしかしたら、彼の強さはその「平凡さ」ゆえなのではないかさえ思えた。天才的な能力を持った平凡な若者ー恐らく中原誠はそういう二十四歳の棋士だった。
 

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中原誠がプロの棋士として修業するために、東京の高柳敏夫八段のもとへ入門したのは、小学校四年生の時だった。父・亀之助は、三人兄弟のひとりくらい勝負師にしてもいいだろうと思った。しかし、母・ませ子にとっては彼は掌中の珠のようなものである。ひとりで東京に行かせるなどもってのほかだった。出発の朝、塩釜駅のホームで「行かないでおくれ!」と泣きすがった。一方、誠は東京に行けば好きな長嶋や巨人が毎日見られる、といい含められていた。
 
日本将棋連盟棋士 中原誠彼の名刺には、そう刷り込んである。ある時、どうして段位が入っていないのか、と訊ねていた。四段になって初めて名刺を作らせたが、段位を入れると使い切らないうちに昇進してしまうのがもったいなくてつけなかった。それが習慣で現在に至っているのだ、と。
 
酒も呑まず、煙草も吸わず、家でクラシック音楽を聴くのが唯一の楽しみであり、残りの時間はすべて将棋に費す、という生活を彼はなんの抵抗もなく受け入れていた。少しもイヤではなかったからだ。彼の手紙にはまったくムダがない。簡潔に用件だけを書く。言葉にも、動作にも、そして考えてみれば、彼の生き方そのものにさえムダがないのだ。五木寛之がいうように、もし青春がマスターベーションに象徴される不毛な「ムダそのもの」だとすれば、中原誠に青春はなかったのかもしれない。彼は将棋をするように青春を生きなければならなかった。
 
中原誠は極めて平凡な若者である。「やわらかくて、人づきあいとよくて……この世に神様がいるとすれば、ぼくは絶対中原さんみたいな人だと思いますね」という新聞記者の意見を聞いても、やはり彼が平凡な若者にすぎないという印象に変わりない。ただ、彼が世の若者と違っていたのは、自分を平凡だと見極めて、その平凡な器の中に非凡な才能だけを暖めつづけた点である。傑出していたのはその「見極め」である。世の若者は、平凡さを非凡に見せかけようとするが、彼は平凡であることを素直に受け入れていた。たぶん、彼の天才は、その平凡さのなか以外では花開かなかったに相違いない。
 

いいなあ、将棋の世界って。次に生まれかわったら将棋の棋士か、プロ野球選手になりたい。沢木耕太郎、いいねえ。オススメです。(・∀・)

 

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若き実力者たち

若き実力者たち