「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「大阪 地名の謎と歴史を訪ねて」(若一光司)

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大阪 地名の謎と歴史を訪ねて (ベスト新書)


大阪へは毎月のように出かけている。新潟生まれのワタシには、関西のあのノリと明るさが羨ましい!(╹◡╹)


さて、「大阪は、歴史と文化の宝庫である。本書では、著者が大阪府内43市町村一つひとつを訪ね歩き、各地の見どころを足掛かりに、その土地の歴史や地名の由来を探っていく。大阪の知られざる歴史や新たな魅力をたっぷり味わうことができる」そのエッセンスを紹介しよう。



・大阪最大の繁華街の「梅田」の地名由来は「泥沼のような土地が埋め立てられて田畑となったので『埋田』と呼ばれるようになり、それがやがて好字化されて、『梅田』と書かれるようになった」という説がもっとも有力視されている。また一方で「もともと梅田宗庵という人物の所有地で、それが埋め立てられて『梅田』の名がおこり、やがて『梅田』となった」との異説も、多くの地名本で紹介されている。


「茨木」の名は鎌倉時代から見られ「蕀切」「井原木」「茨城」「伊原木」などが書かれることもあった。棘のあるイバラの木が多く茂っていたことに由来すると思われるが、「味木(うまき)の里」と呼ばれていたのが訛って、「茨木」になったとの説もある。


岸和田市は、古くは「岸」と呼ばれていた。14世紀に楠木正成の一族である和田高家が築城してからは「岸ノ和田」と呼ばれるようになり、やがて「岸和田」に変化して、地名になった。


・2006年に政令指定都市となった堺市は、人口・面積ともに、大阪府内に二番目に大きな都市である。摂津・河内・和泉の旧三国の境に発達した町なので、平安時代から「堺」と呼ばれてきたが、「堺」という字は、境界を意味する「界」の異体字


・日本全国で3000ヶ所を超える貝塚が発見されているが、その「貝塚」を自治体としているのは現在、大阪府貝塚市だけである。それゆえ「貝塚市にはさぞかし立派な貝塚の遺跡があるのだろう」と想像されるのだが、実は、これが皆無なのだ。遺跡が現存しないのは「中世に水没してしまったからだ」と説明されることが多い。一方、「行基が海辺に塚を築いたとの伝承から『海塚』と呼ばれ、いつしか『貝塚』の字が与えられるようになったとの主張もある。


泉佐野」は大阪湾に面する「狭い原野」だったので「狭野」と呼ばれ、それが「佐野」に転じた。栃木県の佐野市と区別できるようにと「旧和泉国」の「泉」を冠して「泉佐野市」となった。


大阪は古くは「難波(なにわ)」と呼ばれた。『日本書紀』ではその由来を、「神武天皇が船でこの地に近づいたとき、潮の流れが速かったので『浪速(なみはや)』または『浪華(なみはな)』と名付けられ、それが訛って『難波(なにわ)』となったと説明する。また、万葉集』では「魚庭(なにわ)」と書かれていることから、「魚の豊富な大阪湾に面する地なので、『魚庭(なにわ)』と呼ばれた」との説もある。


豊中明治22年(1889年)に誕生した新しい地名である。新免・南轟木・山ノ上・桜塚・岡町の五ヶ所が合併して村が成立した際に「豊島(てしま)軍の中央に位置する」との理由で「豊中村」と名付けられ、それが町となり、市となった。


藤井寺」の名は「葛井寺」に由来する。葛井寺百済王族の子孫である藤井連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀の中頃に創建されたと推定されている。「葛井」が「藤井」と表記されることが多くなったのは、鎌倉時代のことか。


枚方は「淀川の水辺の平たい潟(平潟)に由来する。しかし「平地、もしくは『平たい地方』を意味する『平方』から生じた、アイヌ語のピラカタ(崖の上)から来ている等の説もある。


「江坂」の名は、平安期から見られ、古くは「榎坂(えさか)」と書かれた。「榎がそびえる坂」に由来するのだろう。


なーるほど!_φ( ̄ー ̄ )メモメモ。地理の本はオモシロイよねー。オススメです。


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大阪 地名の謎と歴史を訪ねて (ベスト新書)