「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「コンニャク屋漂流記」(星野博美)

 


コンニャク屋漂流記 (文春文庫)


この本はオモシロイ!10日くらいかけてじっくり読みました。今年読んだ本のベスト10入りは間違いないね。(・o・)


コンニャク屋というのは屋号。コンニャクは出てこない。先祖は江戸時代、紀州から房総半島へ渡った漁師で、屋号はコンニャク屋。ルーツを探して右往左往、時空を超えた珍道中が始まる。読売文学賞受賞の傑作ノンフィクション!そのエッセンスを紹介しよう。


これはコンニャク屋と呼ばれた漁師一族の漂流記である。なぜ猟師なのにコンニャク屋で、しかもよりによってコンニャクなのか。なぜ日々の暮らしに欠かせない必需食品、米や味噌や酒や醤油や豆腐でなく?考えれば考えるほど、奇妙な屋号である。


・こんな言葉がある「板子一枚 下地獄」。船と地獄はたった一枚の板で仕切られている、という意味だ。「どんなに大きな船だって、穴が開きゃ沈むんだ。沈んだら、お陀仏よ。一巻の終わりだ」天国と地獄が同居した海に、漁師は毎日出てゆくのである。


「漁師は60過ぎたらちょっと骨なんだよ。いまは魚探(魚群探知機)もGPSもあるから楽なもんのだ。昔はそんなもんなかったんだから。沖い出たら灯台も島もあんもねえよ。まあ、いうなら勘と経験だね。魚探やGPSがなかった頃は、『港から出て煙草何本吸った距離』って距離を覚えててて樽を海に垂らして潮の流れを見て、勘で行ったんだ。猟師は頭がいる。馬鹿ではできねえ。ひ弱でもできねえ。だから大変なんだお」


漁師がとかく大袈裟に、ホラ吹き気味になるのも、勤務先が海であることが関係していると私は思う。海の上で働くには、生死の境を常に感じ、死を覚悟しなければならない。自分を信じるしかない、よるべない世界。その緊張は、陸で暮らす人間には想像もつかないだろう。だから陸に戻ったとき、思い切り緩める必要があるのだろう。


「おじさんはどうして入れ墨してるの?」「おう、コレか?猟師ってのはよ、海で死ぬだろ。おめえ、海で死んだ奴を見たことあるか?顔なんか見られたもんでねえ。痩せてる奴だって、パンパンに膨らんじまうだぞ。どいつがどいつだか、さっぱりわからねえ。で、入れ墨ってわけよ。入れ墨がありゃあ。顔がぐちゃぐちゃでも、こいつは巌、こいつは栄一ってわかるって寸法よ」


・まさに父の言う通りだった。新しいものが嫌いで古いものが好き。だからいつも、時代遅れになる。私は確かに祖母に似ている。だからこそ、自分の中の祖母的要素を必死に打ち消してきたのだろう。


・記憶ーそれは不確かで移ろいやすく、手渡さなければ泡のように消えてしまう。はかないもの。だからこそ、けっして手放したくない、何よりも大切なもの。歴史の終わりとは、家が途絶えることでも墓がなくなることでも、財産がなくなることでもない。忘れること。思っている限り、人は生き続ける。忘れること、忘れられることを恐れながら、それでも行きていこう。私はいま、そんなふうに感じている。


自分のルーツを探る旅に出たくなりました。超オススメです。(・∀・)


 


コンニャク屋漂流記 (文春文庫)