長年、親鸞への想いを綴り続け、長編小説『親鸞』を発表した五木寛之氏と、10年にわたって「道元」を連載し、2007年に単行本化した『道元禅師』 が、泉鏡花賞、親鸞賞を受賞した立松和平氏。この両者が、ほぼ同時代に生きた二人の宗教者を対比して、何がちがい何が共通しているのかを探ろうとする対談。そのエッセンスを紹介しよう。
立松 要するにに仏教では、道元と親鸞というのは対極にあるような感じがしますよね。けれどよく考えてみると対極にあるようでいて、そうでもない。自力、他力と一言でいうけれども。自力の仏教というのは、実はないと僕は思っています。仏教はみんな他力ですよ。たとえば道元にしても「仏の家に身を投げ入れる」というのは、究極的な他力の言葉だと思うんです。
五木 僕が法然、親鸞、蓮如という三人の浄土系の思想家を一言で言う時に、法然というのは人間にとって最も大事なことを、“やさしく”教えようとした。つまり易行ですね。親鸞というのは法然に師事して、法然がやさしく教えたことを“ふかく”究めた。やさしいだけではだめなんだということで、“ふかく”究めた。そして法然がやさしく、親鸞が“ふかく”究めたことを、蓮如という人は“ひろく”人々に手渡して歩くことに生涯を捧げた。こういうような解釈をしているんです。ですから「やさしく、ふかく、ひろく」ということです。
五木 仏教では面授ということを大事にする。禅には不立文字という言葉がありますが、これは決して文章を軽んずるというわけではないけれども、本当に大事なところは。文字や文書では伝えられないと。必ず師から弟子へと面と向かって伝えていかないといけない、というわけでしょう。つまり文章とか活字とか、字というのは、たんなる言葉の記録装置にすぎないと受け止めているんです。語られる言葉こそが、実は真実だと思っていますから。なぜかというと、語られる言葉には表情があり、声という声色があり、それから身振り手振りがあり、そのときの目の色があり、感情がこもっている。面授とは、それらをまるまごと言葉として伝えるわけです。対面としての面授がなぜ大事かというと、言葉に含まれたもろもろの要素を全部、全的に受け取ることができるから。
五木 釈尊はお経を書かなかった。当時でも文字はあったんです。だけど彼は書かなかったんです。ですから釈尊が語る言葉を弟子たちは、全身全霊をかけて暗記するわけですね。一言一句間違えないように暗記する。そして釈尊の死後。弟子たちがそれを文章化するときに、どういうかたちで釈尊の教えを残したかというと、はじめは偈(げ)というかたちにしたんです。偈とは歌です。ただ覚えるといっても覚えにくいから、リフレインの入ったような、詩のかたちで釈尊の言葉は全部伝えられる。それを百年後とか何百年後に集まって、その偈を文字にして残そうということで文書化が始まって、スートラ、つまりお経が成立するわけですね。ですから最初はやっぱり音声なんですよ。言葉です。
五木 文章が伝えるものというのは、そのときの自分の声とか全身全霊とともに語る言葉として伝えられるものではないから、真実の半分ぐらいしか伝わらない。だから『選択本願念仏集』というのは浄土宗の聖典なんですけれど、一番最後には、読んだ人はこれを窓の下の土の壁の中に埋めてほかの人などに見せてはいけないと書いてあります。それは一つの重要聖典のスタイルなんです。『歎異抄』も同様で、著者であるとされる唯円も巻末で「他言さるべからず」と書き、それに註をして、蓮如も同じことを繰り返して書き加えているのです。
五木 真宗ではいまでも聞法(もんぽう)ということを一番大事にするんです。要するに、直接声で話を聞くということが最も大事なことであるというんです。文字で読むのではなく、聞法で、人から人へと直接伝えるということです。コップからコップへ水を注いでいくように、真宗というものは、人から人へ伝えるということを一番重視しているんです。
実に深いです。仏教は深い。何度も繰り返して読みたい本です。オススメです。(・o・)